月別アーカイブ: 2016年7月

今日の聖書/「自分ごのみの神を造っても」イザヤ書17章11節

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 ダマスコ(ダマスカス)への宣告です。
 彼らは当時、偶像の神々を作り、拝んでいました。

 自分たちを造られた創造主ではなく、自分たちで神を作り拝んだのです。
 しかし、そのような人工的な神は、実際には存在しないわけですから、いざというときに何の助けも与えてくれませんでした。
 
 同じあやまちを、人間はいつだって犯します。
 人は、自分ごのみの「神」を造って、それに依存し、崇拝します。
 今の時代、もっとも大きな偶像は「金銭」でしょう。経済がすべての判断基準のカギになっているのが現代社会です。
 金銭崇拝こそ、世界最大の偶像礼拝と言えるでしょう。

 しかし、金銭は人を救えません。
 お金のために生きていくなら、何の実も結ばない、空しい生涯を振り返ることになるでしょう。
 あなたを造られた神が、あなたを愛し、招いておられます。
 この愛の前にすべてを明け渡す人は幸いです。
 その人は、空しさを忘れて今を生きることができるからです。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。
 そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
 自分の宝は、天にたくわえなさい。
 そこでは、虫もさびもつかず、
 盗人が穴をあけて盗むこともありません。
 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
    マタイ6:19-21

今日の聖書/「高ぶりと涙」イザヤ書16章7節

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 モアブの民族への宣告が続きます。

 彼らはあまりにも高ぶりすぎたゆえに、神さまのさばきの中で泣きわめく状況におちいる、と宣言されています。
 高ぶりが結ぶ実は、悲しみの涙なのです。

 私はかつて、心において泣きわめく少年でした。
 それは、愛の欠如からくる傷の痛みからくる悲しみだと思っていました。

 しかし、今日の聖句と重ねあわせて振り返るとき、それは私の自己中心と罪からくる苦しみのゆえでもあったことも思い起こされます。

 誰にも従おうとしない高ぶりの幼児性。
 それゆえの孤独、そして絶望。

 イエス・キリストはそんな私を、見事に救ってくださったのでした。

「わたしは正しい人を招くためではなく、
 罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
   ルカ5:32

妻のゴーヤ♪


夏のスケジュールは過密で、デートに行くこともないままの妻。

せっせとサポートに回りつつも、こんなでっかいのを育ててました。

やったね!

私は今日から熊本、日曜日の山陽での説教は妻がしてくれます。

「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。」箴言31:10

今日の聖書/「滅びるときは一夜のうちに」イザヤ書15章1節

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 モアブという民に対するさばきの宣告です。

 印象的なその滅びは一晩のうちの出来事であった、ということです。
 どんなに栄華を誇る町も、滅びるときはまたたく間なのです。

 私達の生涯もまたそうです。終わるときはあっと言う間であったりします。
 私達の人生も文化も、ひどくはかないものなのです。

 けれど、もしもこの地上での短い生涯の中で、永遠の神と出会うなら、私たちは神とのつながりの中を生きることができます。
 また、地上のいのちが終わっても、天での神とのいのちがあるのです。
 そんな永遠のいのちを与えるために、イエス・キリストは救いを携えてこの世界に来てくださったのです。
 今は恵みのとき、今は救いの日です。

 「人はみな草のようで、
 その栄えは、みな草の花のようだ。
 草はしおれ、花は散る。
 しかし、主のことばは、
 とこしえに変わることがない。」
  第1ペテロ1:24-25

今日の聖書/「悪の根源としての高ぶり」イザヤ書14章13節

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 人間の中には、「神になりたい」という根源的な欲求があるようです。
 最初にエバが食べてはならない木の実を食べたとき、決め手となった悪魔のセリフは「それを食べると神のようになれる」でした。
 
 冒頭の聖句は、バビロンの王についての記述の文脈ですが、サタン(悪魔)についての表現がそこに重ねられているとも言われています。
 もしそうだとすると、悪魔はもともと神に仕える者でしたが、神になろうとして天から追放された、ということになります。
 悪の根源は、高ぶりなのではないでしょうか。

 自分の思い通りにことを運ぼうとする。人の上に立とうとする。神さまを軽んじたり、背いたりする。
 そんな自己中心的な歩みには、いつも高ぶりの性質が伴います。
 こんな頑なな罪の性質から、私たちを救えるのは、イエス・キリストだけです。
 キリストは、私達の心に飛び込んでくださり、内側から変革を与えてくださいます。
 この方の性質は、自己中心と高ぶりの正反対の人となりです。
 愛とへりくだりによって、私の心に光を投げ込んでくださったのです。

「キリストは神の御姿である方なのに、
 神のあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
 人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、
 死にまで従い、 実に十字架の死にまでも従われました。」
   ピリピ2:6-8

祈祷会のショートメッセージ「祈りの実を得るために」ヤコブ5:17-18

録音はこちらです。