月別アーカイブ: 2016年6月

今日の聖書/「手応えのある幸せ」伝道者の書6章12節

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 ある若者が一つの夢を心に抱きました。
 大歌手になって、大きな家を建て、眺めのいい窓のある部屋で朝のコーヒーを飲む・・、それが彼の夢でした。
 血のにじむような努力の末に、彼は夢を実現させました。
 誰もがその名を知るような大物歌手になりました。そして、大きな家を建て、ある朝、窓の外を見ながらコーヒーを飲んだのです。
 その時、「こんなものか・・」とがっかりしたそうです。
 これぞ幸せだ、と思い描いて追い求めて来たものは、実現してみると随分と味気ないことだったのです。

 同じことが私たちの生涯に起こりえます。
 追い求めていたことも、手にしてしまえば輝きを失います。
 何をやっても手応えがなく、空しさだけが残ります。
 自分の願望や夢に縛られないことです。数分後に何が起こるかも知らない私たちに、どうして人生の目的など見定めることができるでしょう。

 神さまだけが、私たちの生涯に確かな目的を与えることができます。
 手応えのある幸せを味わいたいのなら、まず神さまに出会うことなのです。

「イエスは彼らに言われた。
『わたしについて来なさい。
 あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』
 彼らはすぐに網を捨てて従った。」
  マタイ4:19-20

祈祷会ショートメッセージ録音ファイル「偽りのことばではなく」ヤコブ5章12節

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録音ファイルはこちらです。

今日の聖書/「ギフトの中を生きる」伝道者の書5章20節

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 人生の空しさを悟った「伝道者」は、真に幸福な生涯の秘訣を探り求めます。
 そして答えを見つけます。
 それは「生きる」のではなく「生かされている」ことをわきまえる、ということです。

 自己中心なむさぼりの中で、富を求めて生きていても、決して満足はありません。そして死ねば裸に戻るのみです。
 人は生きているのではありません、生かされているのです。
 いのちも、時間も、能力も、財産もすべては神さまから与えられたものです。
 自分の力で生きている、と錯覚している間は、決して平安を得ることはありません。自分で把握できない事柄を、自分で管理しようとしているからです。

 今与えられているもので満足すること、今日なすべきそれぞれの仕事を誠実に果たすこと、そして何よりも神さまに感謝して生きること。 
 そうやって生活するなら、くよくよ悩むこともなく、神とともに心満たされて歩むことができるのです。
 もう一度、自分の今を振り返って、どんなに多くの恵みが与えられているか、を感謝したいと思うのです。

「いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって
 神があなたがたに望んでおられることです。」
   第1テサロニケ5:16-18

今日の聖書/「ねたみと競争の束縛の中で」伝道者の書4章4節

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 「伝道者」は、王であり学者であり、まさに成功者でした。
 しかし、人生を振り返り、また社会を観察する中で、いっさいが空しいということを悟っています。

 人々の日々の努力や業績が、実は人間同士のねたみにすぎないことが分かったのです。
 つまり、人々はお互いの比較の中で競争し、優越感や劣等感にふりまわされながら労苦しているのです。
 そこには自由はありません。目的すらも存在しません。人との比較で「勝ちたい」という反射にも似た行動であり、ねたみの苦痛をやわらげるための生き様なのです。

 私の中にも、そんな比較や競争があることを思わされます。
 そして、イエス・キリストが教えてくださる生き方は、ねたみや競争とも無縁であったことを改めて知らされます。

 キリストの示してくださった生き方は、何のえこひいきもない神の愛をゆたかに受け続ける生き方です。
 現代において人々をとりこにしている「承認欲求」を、神さまは一瞬で満たす方です。
 愛を受けるだけではなく、キリストからの愛で人々を愛する生き方へとキリストは導かれます。
 そこにこそ、人が本来生きるべき道筋があります。
 ねたみと競争のレールから解かれて、誰も知らかなった別の歩みをすることが可能です。
 それはもちろん、だれからも賞賛されることのない歩みでしょう。
 「馬鹿正直な人だ」「損する生き方してる」と見られるかもしれません。
 しかし、心の中には平安と手応えがあるのです。

 本当はみんな知っているはずです。人と比べて生きることの、どうしようもな空しさを。

「イエスは、みなの者に言われた。
『だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい。』」
ルカ9:23

今日の聖書/「昨日の続き、ではなく」伝道者の書3章14節

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 二つの「時」があります。

 私の時、と神さまの時、です。
 この二つの時間は、同じ「時間」ということばですが、内容は大きく違います。
 私は時間に縛られています。しかし、神さまは時間を超えた永遠の存在です。
 ですから、私が昨日と明日の間の今を生きているのに対して、神さまは最初から最後までのすべてを見渡していらっしゃいます。歴史家や物理学者が心を燃やして追い求める「すべて」を、神さまはつぶさに把握されています。
 この方の視野を得ることは私たちにはできません。人はいつも過ぎゆく点としての今を生きるのみです。過去に戻ることも、先を急ぐこともできません。

 私達の生涯をどう用いることが最善なのか、実は私たちには見極めることはできません。
 私たちは自分の生涯がのこり何年なのかすら知らないのですから。
 そして、昨日おこった出来事が、今日どう変化するのか、今手がけていることが明日どうなるのか、も知りません。
 今語り合っている人と、今後どうなるのかもまったく知らないのです。
 ですから、私たちはさまよう旅人であり、手探りで今を生きるのです。その結果、昨日の続きを継続することになります。
 いつまでも続くものなど本当はないのに。

 人には選択の自由がありますし、その選択の結果への責任もあります。
 そう考える時に、もっとも懸命な選択は、神に聞き従う生涯を選ぶことです。
 日々の歩みを、神とそのみことばに従いながら生きるなら、私たちは昨日の続きではない今日を手にすることができるでしょう。
 イエス・キリストはわずかな地上の生涯でしたが、人類に救いの光を与える偉大な軌跡をたどられました。そのすべての足跡に意味があり、おりにかなった言動を生み出したのです。キリストがまいた種は、2000年経った今でも新しい実を結び続けています。
 神にささげられた人生のモデルが、そこにあります。

 私たちが人間である以上、昨日と明日の間の点を生きることに変わりはありません。
 しかし、祈りの中で永遠の神さまに導かれながら、平安と共に旅をすることができるのです。

「その永遠のいのちとは、
 彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
 あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
   ヨハネ17:3

2016年6月26日主日礼拝説教/「ふたりの主人には仕えられない」コリント人への手紙第1 7章36-40節

■宣教:コリント人への手紙第1 7章36-40節
    「ふたりの主人には仕えられない」
 

■音声ファイル⇒こちらです。