月別アーカイブ: 2015年11月

今日の聖書/「ヨブよ。なぜ、あなたはそれを・・」ヨブ記16章21節

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 ヨブは苦しみの中で、知らないはずの方について言及しています。
 イエス・キリストがこの世に来られるよりも何百年も前にヨブ記は記されたのに、ヨブは「人の子」と呼ばれる方について語っているのです。
 その方が、「天での証人となり」(19節)、罪のためのとりなしをし(21節)、罪人を友と呼んでくださる(同)と、彼は告白するのです。

 ヨブは、なぜこのことを知っていたのでしょう。
 彼は、苦悩と祈りの中で、誰もたどり着かなかった奥義に気づいたのでしょうか?
 それとも、聖霊が彼に、特別な啓示としてイエス・キリストという希望を見せたのでしょうか。
 もしくは、彼は自分でも意図せずに、心になぜか思い浮かんだことばを語り、預言者として用いられているのでしょか。

 いずれにせよ、ヨブのことばが真実であることを私たちは知っています。
 神の子が私達の世界に生まれてくださり、私達の友となってくださいました。
 身代わりに十字架にかかることによって、罪人を滅びから救ってくださいました。
 旧新約聖書全体が、このことを証ししているのです。

「あなたがたは、聖書の中に
 永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。
 その聖書が、わたしについて証言しているのです。」
   ヨハネ5:39

2015年11月29日主日礼拝説教/「あなたを救う、神のことば」詩篇119篇105節

■宣教:詩篇 119篇105節
   「あなたを救う、神のことば」

●礼拝録画

●メッセージ音声録音⇒こちらです。

今日の聖書/「白髪の者が賢いとは限らない」ヨブ記15章10節

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 ヨブの友人の中には、ヨブよりもずっと年長の人もいたようです。
 人生の大先輩として道理を教えてやってるのに、なぜ聞かないのか、とヨブを責めています。
 しかし、それは年長者の犯しがちなあやまりです。

 年上だからといって、どうして正しい、ということになるのでしょう。
 人生を長く生きてきたからといって、すべてが分かるわけではありません。
 自分より若い者が、あるいは子どもが、自分が経験したことのないような苦しみを味わっているかもしれないのです。あるいは自分よりも深く、神さまに祈りをささげているかもしれないのです。

 私もだいぶ白髪が増えました。
 それが、ますます、自分のこだわりや高ぶりが抜け落ちた現れでありますように。

 キリストのことばを思い出します。

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、
 かえって仕えるためであり、
 また、多くの人のための、贖いの代価として、
 自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
  マタイ20:28

今日の聖書/「だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。」ヨブ記14章4節

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 ヨブの心は神さまに開かれています。
 そして、自分が汚れたものであることも告白するのです。
 汚れたものがきよいものを出すことはできません。ですから、ヨブは、神の前にただ心を開いてあわれみを請うのです。

 彼は神さまに対峙するのではなく、絶対的な神の正しさを認めたうえで、自分という小さな一人の存在を神さまの手に投げ込むのです。
 それを受け取ってもらえないなら、彼のすべては終わりです。
 しかし、受け取ってもらえると信じて、彼は全重心をかけて、神さまによりたのむのです。

 友人たちには、その信仰のやりとりが理解できません。
 
 私達のために、そのひとり子をも惜しまずに与えてくださった神さまは、かならず私たち一人一人の心を受け止めてくださいます。

「だれであっても、求める者は受け、
 捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、
 魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、
 自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
 とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、
 どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
   ルカ11:10-13

今日の聖書/「呼んでください、私は答えます。」ヨブ記13章22節

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 ヨブは知っていました。
 神さまは、語り合ってくださる方であるということを。

 しかし、神さまが彼に突然の苦しみを与え、さらに何も語られない期間を置かれたとき、彼のそれまでの信仰は大きく試みられることになったのです。
 友人たちは、ヨブのためを思ってではありますが、見当はずれのアドバイスや神学的な解釈を展開しました。

 しかし、ヨブの心はそんな中もひたすらに、神さまとの対話を求めて祈り続けているのです。
 神との絆こそ、ヨブのいのちの基盤だったからです。
 そして、最後には彼の信仰が間違っていなかったことが明らかにされることになります。

 神さまは語ってくださる方であり、呼んでくださる方です。
 この神さまの愛は、イエス・キリストの誕生によって、さらにはっきりと明らかにされたのです。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、
目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、
すなわち、いのちのことば・・・」
   第1ヨハネ1:1

今日の聖書/「”知者”のさげすみ」ヨブ記12章5節

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 昨日は、日蓮正宗の僧侶の方から90分にわたって折伏を受ける、という貴重な機会がありました。
 もっとも、自分から受けに行った形ですが。(正直びっくりしました!)

※折伏:しゃくぶく。悪人・悪法を、威力をもってくじいて仏法に従わせること。

 その話の中で感じたことは、自分は知っている、と言うよりも、知らない、と言う方が相手の心に届くのだなぁ、ということです。
 実際に私は日蓮正宗のことを少ししか分かっていないので、教えてください、と質問していく中で、ずいぶんと空気が暖かくなり、最後はお互いに感謝を伝えて終わりました。
 
 ヨブは、自分が知者だと思っている友人ツォファルに対して、自分がいま弱いのはあなたよりも愚かだからではない、と伝えています。
 そして、多くの”知者”が犯す間違いを指摘しています。それは、自分のものさしで”愚か”であると判断した人を容易にさげすむ、ということです。
 相手のことを実際には何も知らないのに、「あなたはこうでしょう?」「そうに違いない」と自分の枠組みで判断し、その勘違いの上に、「だからはあなたは間違っている(=私は正しい)」と結論づけるのです。
 
 クリスチャンは決してこういう虚栄に生きてはなりません。
 私たちはみな、赦された罪人であり、愛によって産んでいただいた神の子どもです。
 もしもクリスチャンが、クリスチャンでない人を見下したり、十字架ではなくて自分を誇るなら、福音の宣教をさまたげているのは、その人自身です。

 自戒を込めて。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。
 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
   マタイ5:44