月別アーカイブ: 2015年10月

今日の聖書/「ほんとうの悔い改め」ネヘミヤ記9章33節

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 ネヘミヤとともに、イスラエルの民は、きよめの集会を開催しました。
 聖書のことばを心を開いて受け止め、自分たちの罪を告白しているのです。
 彼らは、大国に滅ぼされましたが、それでも帰還を許されてエルサレムの城壁を再建しました。でも、未だにペルシヤの奴隷であることに変わりはありあません。
 このような窮状に陥ったのは、ひとえに自分たちの罪のせいであることを彼らは認めています。

 私たちは自分たちの身勝手のゆえに状況を悪化させながら、それをだれか他の人のせいにするものです。
 正面から自分の罪を見据える人は、多くありません。
 しかし、神さまが真の悔い改めに導くとき、人はへりくだって、神さまの前に自分の罪を心から悲しむことができるのです。
 神さまは、そんな悔い改めた心をさげすまれません。この悲しみは、本当の赦しにいたるための悲しみです。

 イエス・キリストの十字架は、このようにして悔い改めるすべての人に、まったき赦しを与えるためにあるのですから。

 主よ、私が自分の罪を正しく悔いることができますように。
 あなたの御顔の光のなかで、正しく悲しみ、そして赦しの喜びを味わう者とさせてください。

「そこで、イエスは答えて言われた。
『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 わたしは正しい人を招くためではなく、
 罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」
   ルカ5:31-32

今日の聖書/「悲しませるためではなく、救うために」ネヘミヤ記8章11節

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 廃墟となった神殿を建て直し、捕囚から帰ってきた民は、もういちど神さまとともに歩む国を作ろうとしていました。
 そんな中で、聖書が開かれ、律法に関する説教がなされました。
 そのときに彼らは、自分たちの犯してきた罪がはっきりと分かり、悲しみ、涙したのです。
 
 しかし、ネヘミヤやレビ人たちは、悲しむべきではない、この聖なる日を喜ぼう、と語るのです。
 聖書は人を悲しませるために書かれたのではなくて、悔い改めの先にある喜びに導く書物です。
 神さまに近づく人には罪が示されますが、同時に赦しも与えられるのです。

 この恵みは、新約聖書によってますます明確に宣言されることになります。

 イエス・キリストの十字架の救いは、圧倒的な恵みの力をもって、今の時代にも全ての人に差し出されているのです。

「神が御子を遣わされたのは、
 世をさばくためではなく、
 御子によって世が救われるためである。」
   ヨハネ3章17節

今日の聖書/「みこころを悟る人」ネヘミヤ記7章5節

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 ネヘミヤは、「神さまがこれをせよと言われている」ということを具体的に悟ることのできる人でした。
 崩れたエルサレムの城壁の再建事業は苦難を極めましたが、彼は、これが神さまのみこころである、という確信のもとに完成させました。
 今日の箇所でも、神さまに心動かされて人口調査を行っています。

 彼が神さまのみこころを悟り、行動に移せたのは、彼が祈りの人であったからです。
 神さまとの時間の大切さ、を彼は知っており、祈りを多くする人でした。
 彼がかつてペルシャにいたとき、彼はエルサレムの惨状をおぼえて、祈り続けました。
 ペルシャの王が彼に、何を悩んでいるのか、と問うたとき、彼はその場で祈った、と記されています。
 これは、祈りが彼にとって呼吸をするように自然であったことを表しています。

「すると、王は私に言った。『では、あなたは何を願うのか。』そこで私は、天の神に祈ってから・・」ネヘミヤ2章4節

 神さまのみこころを知りたいのなら、また、実行する力がほしいのなら、なすべきことは単純です。祈りです。
 神さまと語り合う人が、導きと力を得るのです。
 主よ。祈ることをさらに教えてください。

「しかし、イエスご自身は、
 よく荒野に退いて祈っておられた。」
   ルカ5:16

今日の聖書/「志とおびやかし」ネヘミヤ記6章9節

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 神さまのみこころにより、一人ひとりに志が与えられます。
 その人にしかできないことがあり、その人だけが歩む道があるのです。

 みことばは、その人の足を照らし、新しい道を示します。
 神さまが与えた志は、かならず成し遂げられますし、その達成こそ人生の喜びです。

 大切なことは、成し遂げてくださる神さまから目をそらさないことです。
 この世にあっては患難があり、またおびやかしも襲ってきます。

 ネヘミヤによるエルサレムの城壁再建事業はついに完成しようとしていました。
 それを阻もうとする周辺の勢力は、彼のいのちすら狙い始めました。
 また、ユダヤ人も買収され、内部からも裏切りが出ていました。

 それでもネヘミヤは、神を信じ、希望を握りました。
 彼は最初、祈りによって、このことを始めました。
 その眼差しはずっと、神さまに注がれるのです。

 私の目も、主よ、あなたに注がせてください。
 あなたが与えてくださった、きわめて美しいことばが、確かに目の前に現実となるまで、信じて歩み通させてください。

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、
 キリストのからだを建て上げるためであり、
 ついに、私たちがみな、
 信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、
 完全におとなになって、
 キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
   エペソ4:12-13

今日の聖書/「すべてをささげること」ネヘミヤ記5章19節

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 生きていくためにはお金が必要です。
 外敵と闘いながら、城壁再建事業に取り組むイスラエルの民は、どうして経済的に困窮しました。
 そんなときに大きな問題が立ちはだかります。
 民の中の貧富の差です。

 ユダヤ人の中で貧しい者が同胞に借金をし、返済のために土地や子どもを手放していたのです。
 指導者のネヘミヤは、そのことに怒りました。
 神の前にそれはふさわしくない、とネヘミヤは民を指導し、負債を帳消しにするように命じます。
 
 そして、彼自らが私財を削り続けて、城壁再建の事業のためにすべてをささげました。
 私もまた、神さまの働きの中で、自分の持てるものを捧げ続けて行きたいと願います。
 なぜなら、すべては神さまから頂いたものですし、神さまは今日も惜しみなく与え続けてくださる方なのですから。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ
惜しまずに死に渡された方が、どうして、
御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
  ローマ8:32

今日の聖書/「あざけりは避けられない」ネヘミヤ記4章2節

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 生きていく中で、誤解されたり、あざけられたりすることは避けられません。
 人間が罪人である以上、互いにさばきあい、また悪口を言うものだからです。
 あざけられないように、悪く思われないように生きようとするなら、八方美人になり、いつも相手に合わせた歩みをすることになります。

 神さまに従う人も、世の流れと違う歩みをするという意味で、あざけりは避けられないもの、と思っておいた方が良いと思います。
 聖書の中の信仰の先輩たちの多くがあざけりにあいました。
 イエス・キリストご自身もそうです。

 そんな逆風を感じるとき、あざけりのことばにまどわされず、神さまのことばに聞くことが大切です。そして、あざけってくる人もまた、神さまに出会えるように、と祈れるなら、心は平安でいられるでしょう。

「そのとき、イエスはこう言われた。
 『父よ。彼らをお赦しください。
  彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』
 彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
 民衆はそばに立ってながめていた。
 指導者たちもあざ笑って言った。
 『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、
  選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』」
    ルカ23:34-35