月別アーカイブ: 2015年2月

今日の聖書/「弱みにつけこんで、人の尊厳を侵害してはいけない」申命記24章11節

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 借金のかた(担保)に物を受け取る場合、その人の家に入って物色してはならない、と命じられています。
 借金をせねばならない状態であったとしても、その人のプライバシーは守られるべきなのです。
 お金がないことは罪ではありません。お金があることが正義でもありません。
 
 多くを持つ者は、その資産の責任を神さまから与えられているのであって、自分を誇るべきではありません。

 神さまと出会った心の富をこそ、誇りとするべきです。
 罪の借財に押しつぶされていた私を、キリストは救ってくださいました。
 ご自分が十字架を負ってくださったのです。

 私もまた、弱さや貧しさを持つ人に、お仕えできますように。

「貧しい境遇にある兄弟は、
 自分の高い身分を誇りとしなさい。
 富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。
 なぜなら、富んでいる人は、
 草の花のように過ぎ去って行くからです。」
   ヤコブ1:9-10

今日の聖書/「神さまが私の生活にご一緒されるのだから」申命記23章14節

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 イスラエルの兵士は、武器とともに小さなくわを装備していました。
 陣営の中で用たしをするときは、そのくわで穴を掘って用をたし、上から土をかぶせたのです。
 ですから陣営はいつも清潔に保たれました。

 衛生のためだけに、このようなルールがあったわけではありません。
 「あなたの神、主が・・・あなたの陣営を歩き回られるから」とあります。
 聖なる神がおられる陣営として、自分たちの陣営に汚れたものを置かなかったのです。

 私の生活もまた、愛する主がご一緒くださっています。
 醜悪なものを、あたりまえのように転がしておくようなことがありませんように。
 イエス・キリストが十字架に架かってくださったのは、私が罪赦され、神の子どもとして新しく生きるためです。

「神のみこころは、
 あなたがたが聖くなることです。」
   第1テサロニケ4:3

今日の聖書/「安全基準を教える神さま」申命記22章8節

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 「安全はすべてに優先する」ということばを徹底的に叩き込まれている現場作業の方たちも多いでしょう。
 工事の現場では、ヘルメット着用は当たり前のことで、脚立は禁止されいちいち足場を組むことが義務付けられたり、安全ベルトも二重にかけることが常識になってきていたりするそうです。

 しかし3000年以上の昔に、「屋上には落下防止の手すりをつけよ」という命令があったというのは、実に先進的なことではないでしょうか。
 「もしも誰かが落ちても、あなたの家が血の罪を負うことがないため」とあります。
 血の罪、というのは、神さまが与えた一人ひとりのいのちが損なわれる責任、ということです。
 人間は、自分のいのちだけではなく、互いの生命や健康を互いに守りあうべきであり、危険な要素を放置してはならないのです。

 私たちの教会の敷地や建物においても、危険箇所はないかどうか、再度チェックする必要があると思わされます。

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、
 小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」
   ルカ16:10

今日の聖書/「女性の尊厳が踏みにじられないように」申命記21章16節

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 女性が戦争により略奪されたり、一夫多妻が一般的であった時代に、旧約聖書は、女性たちが虐げられないように、その尊厳を保障するようにと教えています。
 社会的弱者であった女性に対して、当時の男性は意のままに振る舞うことがも出来たかもしれませんが、聖書は男がひとたび女性を妻とした以上、神さまの前に彼女の尊厳を守る義務を教えています。
 たとえば、捕虜となった女性を自分の妻にしたい場合は、結婚のための心の準備期間を与え、正当な妻として迎え、自由人としての生涯を保障しなさいと教えられています。
 また複数の妻を持つ場合も、それぞれの子どもについての取り扱いについてえこひいきすることがないように、と命じられています。
 神さまは結婚を貴ばれるお方です。

「花婿が花嫁を喜ぶように。
 あなたの神は、あなたを喜ぶ。」
   イザヤ62:5

今日の聖書/「馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても」申命記20章1節

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 自分にはどうすることも出来ないような課題に直面する時にも、恐れてはならない、と聖書は教えます。
 「あなたの神、主が、あなたとともにおられるから」と。
 主が大いなる神であることの証拠として、出エジプトの出来事が示されています。
 奴隷状態から抜け出せなかった民を、神さまは大いなるみわざと力強い導き、細やかなケアの中で救い出しました。

 同じく、私の生涯にも出エジプトがありました。
 愛を知らず、孤独で、罪と死に捕らわれていた魂を、イエス・キリストは救いだしてくださいました。
 ご自分が十字架に架かるという圧倒的な愛を知った時、私の生涯は、神とともに生きる歩みに決定づけられました。

 この方が共におられるなら、どんな困難の中でも、祈りつつ大胆でいられます。
 神を第一とすること、神の愛を心に受け止めること、ここに喜びと勇気の源があります。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、
 あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
 あなたがたは、世にあっては患難があります。
 しかし、勇敢でありなさい。
 わたしはすでに世に勝ったのです。」
   ヨハネ16:33

今日の聖書/「同害“復讐”?」申命記19章21節

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 「目には目、歯には歯」というのが、ハムラビ法典(古代バビロニア・BC18c)からの出典だと誤解されることが多いのですが、この言い回しは旧約聖書の表現です。
 ハムラビ法典にも確かに似ている条項はありますが、旧約聖書のように整った成句ではありません。

ーハムラビ法典§196
「もしアウィールム(自由階級)がアウィールム仲間の目を損なったら、彼らは彼の目を損なわなければならない。」
ー同§197
「もし彼がアウィールム仲間の骨を折ったなら、彼らは彼の骨を折らなければならない。」
ー同§200
「もしアウィールムが彼と対等のアウィールムの歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。」(「ハンムラビ「法典」」(1999)中田一郎訳、リトン)

 このようなハムラビ法典のルールと似た内容を旧約聖書が短い成句で表現しているので、いつのまにかハムラビ法典に「目には目を、歯には歯を」という言葉があると勘違いされたのだと思われます。

 旧約聖書のこの成句の文脈を見ると、同じく誤解されがちな「復讐法」の意味合いが無いこともわかります。「目には目、歯には歯」は「やられたたらやりかえす」という意味ではないのです。
 これは個人間の私刑を許可しているのではなくて、さばきつかさたちがよく調べた上での裁判と罰則の規定です。

 また特にこの申命記19章の文脈は、悪意的に不正な証人が立って、人を陥れようとしたことがわかった場合には、彼が正しい人に負わせようとした罰をそのままその偽証者に受けさせなさい、という指示なのです。神の民の中で、このような偽証は決してあってはならないことを民が学ぶためでした。

 ですから、いわゆる「同害復讐」というような意味合いはこの命令にはなく、どちらかというと、神の前を正しく生きるための、教育的な罰則ということができるでしょう。

 私たちは、この口で平気で人を傷つけたり、不利になる発言をしたりします。しかしそれは神の前には罪であることを改めて思わされます。
 しかし、新約聖書はそんな私たちの罪のために、イエス・キリストは十字架に架かってくださったことを教えています。
 人を傷つけた私が受けるべき罰をも、キリストは身代わりに引き受けてくださいました。
 旧約聖書に記される聖なる神の規定と、新約聖書のキリストの十字架の愛。その二つを重ねて読む時に、私に差し出されている救いの大きさを改めて思わされるのです。

「そのとき、ピラトはイエスに言った。
 『あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、
  聞こえないのですか。』
 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても
 一言もお答えにならなかった。
 それには総督も非常に驚いた。」マタイ27:13-14
「そのとき、イエスはこう言われた。
 『父よ。彼らをお赦しください。
  彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』
 彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
   ルカ23:34