月別アーカイブ: 2015年1月

今日の聖書/「あなたがたの口から出たことは実行しなければならない」民数記32章24節

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 ミデヤン人と戦って得た牧草地は、ルベン族・ガド族にとって魅力的な土地でした。彼らはおびただしい家畜を持っていたからです。
 ですから、ヨルダン川を超えて約束の地(現イスラエル)を得たとしても、ミデヤンの地をこそ所有地として希望しました。
 しかしヨルダン川を越えていく戦いには、自分たちも戦闘に立って戦う、と約束をしたのです。

 モーセは、その誓いを必ず守るように、と語ります。
 口から出たことは実行しなければならない、と強調するのです。

 神さまの口から出たことは必ず実行されます。
 聖書で神さまのご性質を現す大切な用語にヘセドというヘブル語があります。誠実と訳されることが多いですが、その意味は「約束を守る愛」です。
 愛は、約束を守るのです。

 わたしは日常生活でどんな約束をしているでしょう。そして、本当にその約束に責任を持っているでしょうか。
 私の口から出たことは、実行されているでしょうか。

 主よ、あなたの民にふさわしく、言葉と行いが一つになりますように。

「初めに、ことばがあった。
 ことばは神とともにあった。
 ことばは神であった。」ヨハネ1:1
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
 私たちはこの方の栄光を見た。
 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
 この方は恵みとまことに満ちておられた。」
  ヨハネ1:14

今日の聖書/「聖戦とキリスト」民数記31章16節

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 イスラエルは、今日の箇所でミデヤン人と戦い、処女を除いてすべてを殺します。
 こういう記事を読むと、旧約聖書もテロ国家「イスラム国」も同じように残虐ではないか、という印象を持つ人も多いでしょう。

 この戦いの背景には、ミデヤン人がイスラエルを誘惑し、姦淫と偶像礼拝を持ち込もうとした事件があります。
 ですから、この戦いは侵略のためというよりは、イスラエル人の信仰の純粋性を守るため、という目的があります。
 神さまのみこころは、イスラエルが他国を征服して領土を広げ続けることではなく、罪の蔓延する世界の中で、信仰共同体としてのイスラエルが確立されることで、平和の内に諸国の民に本当の神さまを証しするためでした。
 
 しかし、旧約聖書の記述は、イスラエル人の不信仰やむさぼりの現実を記します。
 神さまが、聖なる民として導こうとしても、外敵による侵略ではなく、内面的な弱さにより滅びていくのです。
 このあたりは、人間個人の歩みととてもよく似ています。どんなに神さまが守ろうとしても、人は罪に負け、自らを滅ぼしていくのです。

 そして旧約聖書は一つの結論を示します。
 神と人との契約関係によっては、人は救われ得ないのです。
 神から人への一方的な恩寵によらなければ、人を救えません。
 聖なる民は、戦いでは確立されないのです。

 そして、神の子キリストは、自らが十字架にかかって身代わりとなるために生まれます。旧約聖書は新約聖書によって完結しています。
 
 もう、聖戦は行われる必要はありません。
 聖なるものを守るために、誰も殺してはなりません。
 なぜなら人間は、他者を殺せる資格を持つほど聖ではないからであり、そしてすべての罪人のためにキリストがすでに死んでくださったからです。

 赦された罪人として、自分自身のいのちを平和のために使うことができますように。

「キリストこそ私たちの平和であり、
 二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
 敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
 このことは、二つのものをご自身において
 新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
 また、両者を一つのからだとして、
 十字架によって神と和解させるためなのです。
 敵意は十字架によって葬り去られました。」
   エペソ2:14-16

今日の聖書/「誓いを主に果たす」民数記30章2節

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 誠実な生き方を聖書は命じています。
 それはつまり、約束を守るということです。

 神さまに対して立てた誓いを変えてはならない、と記されています。
 神さまや人に対して、約束を守り続けることは、時として困難です。そんな中で、いつも心に浮かぶみことばがあります。
 詩篇15篇4節の「損になっても、立てた誓いは変えない。」という句です。
 一度約束した以上、状況が変わり、自分に損になったとしても、約束を果たす生き方を聖書は示しています。
 それが、聖書の教える誠実さです。

 イエス・キリストこそ、約束を果たす方、果たし続けてくださる方です。
 旧約聖書の預言通りに、キリストは来られて、十字架の死にまでも従ってくださいました。
 この方の愛と赦しによって、わたしも救われました。

 誓いを果たすことは時として犠牲を伴うこともあるでしょう。
 しかし、神が与えてくださる恵みを思えば、すべては小さなものです。
 それよりは、誠実な生き方をもって、神とともに生きることを願います。

 天のお父様、わたしは弱いものです。
 しかし、願わくは、約束を守る生涯を歩ませてください。

「主はあなたに告げられた。
 人よ。何が良いことなのか。
 主は何をあなたに求めておられるのか。
 それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
 へりくだってあなたの神とともに
 歩むことではないか。」ミカ6:8

今日の聖書/「ますますきよく」民数記29章13節

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 「仮庵(かりいお)の祭り」と呼ばれた祭りの規定です。
 これは、荒野では仮の住まいであったことを思い出し、何もなくても信仰がある、という神の民の本質を確認する聖なる祭りでした。
 その中で、7日間にわたってたくさんのいけにえをささげる期間があります。
 一日目には雄牛が13頭ささげられますが、二日目は12頭、三日目は11頭と減っていきます。
 そして七日目に7頭をささげて、八日目にきよめの集会が開催されます。

 この減っていくいけにえの数は、民の状態が聖なる民として整えられていることを表しているのではないでしょうか?この祭りの中で、民は一日ごとに神さまとの関わりが強まっていっているのを感じたのではないでしょうか?
 神さまを見つめ続けていく人は、変えられ続けていきます。

 人はその人生において、何を見つめるかによって、まったく違う変わり方をしていくものです。
 聖なる方に目を留めて、ますますきよくされたいと願います。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
 鏡のように主の栄光を反映させながら、
 栄光から栄光へと、主と同じかたちに
 姿を変えられて行きます。
 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
   第二コリント3:18

今日の聖書/「朝ごとに、私をおささげしたい」民数記28章3節

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 イエス・キリストの十字架によって、罪のいけにえとして動物を殺す必要はなくなりました。
 この方が、全人類のための、ほふられた小羊となってくださったからです。

 イスラエルでは、朝ごとに、夕ごとに子羊がささげられました。
 それは、神さまへの信仰のあらわれであったと思います。
 動物はささげないにしても、その心は大切にすべきだと思うのです。
 イエス様が身をもって、私達のいけにえとなってくださったように、私もまたこの身を朝ごとにおささげする者でありたいと願います。
 こんなつたない私を差し出したところで、何かの役に立つわけではありません。
 しかし、それでもイエス様は、こんな私をも恵みで満たし、用いてくださると信じます。

「そういうわけですから、兄弟たち。
 私は、神のあわれみのゆえに、
 あなたがたにお願いします。
 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
 聖い、生きた供え物としてささげなさい。
 それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
    ローマ12:1

今日の聖書/「羊飼いは羊飼いとして」申命記27章17節

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 いよいよ長い旅にも終りが見えて、約束の地が近づいてきたとき、モーセには辛い宣告がなされました。
 彼は約束の地を見ることは出来ても、入ることは許されませんでした。
 彼は一度だけ、神さまに立てられた指導者としてふさわしくない言動をしました。ですから、荒野の旅の終わりとともに、天に召されることになったのです。

 それは、指導者はどこまでも神を指し示すべきである、という永遠の教訓とも言える人生の締めくくりではないでしょうか。

 そして驚くべきことに、モーセが神さまに答えて祈ったことは、自分のことではなく民のことだったのです。
 モーセに代わって民を導く、良き指導者を立ててください、と一番に願ったのです。

 彼はまことに羊飼いでした。良い羊飼いは、自分のことよりも羊のことを思うのです。

 私も一人の牧師です。牧師というのは原語のギリシャ語では「羊飼い」です。
 教会の信徒さんたちは、本当に素晴らしく私を支えてくださり、熱心に私が語る聖書の言葉に聞き入ってくださいます。
 私もまた、いつも教会の方たちのことを考えて生きているつもりですが、最後まで保ち、また今以上に深くしたいと願わされます。

 それはきっと、真の大牧者であるイエス様を見つめ続けるということなのでしょうね。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、
 滅ぼしたりするだけのためです。
 わたしが来たのは、羊がいのちを得、
 またそれを豊かに持つためです。
 わたしは、良い牧者です。
 良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
   ヨハネ10:10-11