月別アーカイブ: 2014年9月

今日の聖書/「祝福と共に旅する人」創世記26章28節

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 カナンの地において天幕を張り、寄留者として生活していたヤコブでしたが、神さまの祝福の中で次第に多くの家畜やしもべを持つようになりました。
 それはペリシテ人たちの妬みと敵意の対象となり、いやがらせを受けたり、井戸を奪われたりしました。

 しかしイサクたちが行く先々で新しい井戸が見つかるのです。
 ついにペリシテ人たちは、イサクには圧倒的な神の後ろ盾があることを悟りました。
 そして平和条約を申し出たのです。

 もしも私たちが、神のみことばに従って行動するなら、必ず神さまが責任をとって下さり、祝福をもって臨んでくださいます。

「わたしに仕えるというのなら、
 その人はわたしについて来なさい。
 わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。
 もしわたしに仕えるなら、
 父はその人に報いてくださいます。」
  ヨハネ12:26

今日の聖書/「神の恵みを無駄にしてはならない」創世記25章32節

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 イサクの二人の息子の内、長男のエサウは大きな間違いを犯します。
 彼はお腹を空かせて猟から帰ってきた際に、一杯のスープをもらうために弟ヤコブに長子の権利を譲るのです。
 しかしそれは、アブラハム・イサクから継承される神の選びの民の特権を譲ることであり、イスラエル民族の祖となる権利を譲ることになります。
 決して軽んずるべきではないものを、エサウは軽んじました。

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 このことを思うとき、私は新約聖書に記される「神の子とされる権利」について同様のことを思わされるのです。
 イエス・キリストの十字架の愛を信じる信仰によって、人は神の子どもとされる特権を頂きます。
 それは、罪の赦しの恵みであり、
 どんな時でも直接神に祈れる幸いであり、
 永遠のいのちの約束です。
 この恵みは、絶対に軽んじられるべきものではありません。
 神と私との絆、これこそ人生最大の宝というべきものです。

「私たちは神とともに働く者として、
 あなたがたに懇願します。
 神の恵みをむだに受けないようにしてください。」
   第2コリント6:1

2014年9月28日山陽教会礼拝説教 岩塚和男師「ようがす引ぎ受げだ!」 ー神が共に働いて下さるからー ヨハネ9章1-5節、ローマ人への手紙8章28節

■宣教:岩塚和男師(宮古コミュニティチャーチ)
    ヨハネ9章1-5節、ローマ人への手紙8章28節
    「ようがす引ぎ受げだ」

●礼拝録画


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●メッセージ音声録音⇒こちらです。

今日の聖書/「主と共に旅をするなら」創世記24章40節

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 年老いたアブラハムは、腹心のしもべに、息子イサクのための妻を探しにいく旅を命じます。
 うまくできるかどうか不安を覚えるしもべに対して、アブラハムは、主がその旅を成功させてくださるから、といい聞かせます。
 なぜ彼がそう言い切れたのでしょう。
 それは、アブラハムの人生そのものが主と共にある旅路だったからです。

「私は主の前を歩んできた。」

 という一言に、彼の生涯で経験してきたさまざまな神からの助けと喜びが伝わってきます。
 主と共に旅をする人は、多くの恵みの経験の中で確信をもって主により頼むことができるようになるのです。
 生きることは、神への信頼を増し加えることなのです。

 新しい一週間が始まります。
 新しい旅路に期待しつつ。

「この希望は失望に終わることがありません。
 なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
 神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
  ローマ5:5

今日の聖書/「ていねいにおじぎをして」創世記23章7節

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 アブラハムの最愛の妻サラが死んだ時、カナンの地の人々は喜んで墓所のためにほら穴を提供しようとしました。
 アブラハムはその地を受け継ぐ、という神さまの約束のもとにカナンの地に暮らしていましたが、実際には寄留者であり自分の土地を持っていなかったのです。
 彼は正当なお金を支払ってほら穴を買い取りたい、と申し出たのですが人々は「あなたはわたしたちの間にあって、神のつかさです。」とお金を受け取ろうとしなかったのです。

 このところから、異国の地にあってアブラハムがその信仰と人格のゆえに大いに人々に尊敬されていたことがわかります。
 彼はこの土地を神さまからもらう、という約束がありました、しかし彼はどこまでも人々に対して謙遜でした。
 「ていねいにおじぎをして」という言葉が印象に残ります。
 愛は礼儀に反することをしない、というコリント人への手紙教えを思い出します。
 私もまた、どんな場合にもていねいにおじぎをする人でありたいと思います。
 うわべのお辞儀ではなくて、神と人を愛する人間として。

 岡山県北に柵原(やなはら)という地域があります。
 戦時中、鉱山で大いに栄えた町です。
 そこに教会があり、当時大きな影響を与えました。山陽教会に今は信徒としてこられている江見太郎先生と奥様もその町の教会の出身です。
 当時の岡山の田舎(今でも、ですが)で、青年がヤソ(クリスチャン)になるというのは決して簡単なことではなかった、と推察されます。
 どうして洗礼を受けたり牧師になったりすることを親族が許したんですか?と聞くと、東京から疎開してきた人たちのおかげだ、と言われました。
 都会からやってきた人たちの中に、地元の人達がびっくりするような経歴や知識の人たちがいて、非常に礼儀正しく、誰からも尊敬されたというのです。
 そして、彼らがクリスチャンであり、その人達が行っている教会ならよかろう、という風に思われたというのです。

 クリスチャンは、神さまからの約束を持つ人達です。
 天に国籍があり、神のみことばを知り、神と祈りで語り合う特権を持つ人達です。
 そして、同時にイエス様の深い慈しみを知るものとして、ていねいにおじぎができる人であるべきでしょう。
 わたしもそんな者にならせてください。

「愛は寛容であり、愛は親切です。
 また人をねたみません。
 愛は自慢せず、高慢になりません。
 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
 怒らず、人のした悪を思わず、
 不正を喜ばずに真理を喜びます。」
   第1コリント13:4-6

今日の聖書/「自分のひとり子さえ」創世記22章12節

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 神さまはアブラハムに、ひとり子イサクをいけにえとしてささげなさい、と言われました。
 イスラエルには他国とちがって人間をささげる、という習慣はありません。これは異常な命令と言わざるを得ません。
 まして、アブラハムにとってイサクは、高齢になってからの一人息子であり、望みそのものでした。

 しかし、彼はモリヤの山にイサクをともない、彼を全焼のいけにえとしてささげようとしたのです。
 そこで神さまはアブラハムにストップをかけました。「何もしてはならない」と強く命じています。

 神さまはアブラハムの信仰を確認されたのです。彼はずっと、神さまを一番にして歩んできました。
 しかし今、最愛の息子を得ました。それでも彼にとって神さまが一番かどうかを確認されたのです。
 アブラハムはその試練をパスしました。彼にとってはイサクは神さまからのプレゼントであり、神さまに優先するものではなかったのです。

 私にとって愛する存在があるとしても、それを神さまよりも優位に置くことがあってはならない、ということを改めて思います。
 失うことを私たちは怯えますが、神さまとの関係を失うことをもっとも恐れるべきです。
 たとえば恋人がいるとして、神を選ぶか恋人を選ぶかと問われるならば、神を選ぶべきです。なぜなら、その恋人を本当に幸せにできるのはあなたではなくて、神さまだからです。
 夫婦にせよ、親子にせよ、その間にイエス・キリストをお迎えすることです。そうするならば、真に相手を愛することができます。

 絶対に信頼できる方として、神により頼みましょう。
 この方こそ、信頼に値する方です。
 なぜなら、神こそ「自分のひとり子さえ惜しまないで」十字架に架けてくださった方だからです。
 アブラハムとイサクの出来事は、将来におけるイエス・キリストの救いの予言的な型だったのです。

 神さまは私たちを第一にして、愛されています。
 この愛の中で、神のことばを聞き、従っていくものとさせてください。

「神は、実に、そのひとり子を
 お与えになったほどに、世を愛された。
 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
 永遠のいのちを持つためである。」
   ヨハネ3:16