月別アーカイブ: 2014年2月

今日の聖書/「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」ヨハネの福音書4章42節

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 物心ついた時から私は教会に行っていました。
 他宗教の文化も回りにはありましたが、クリスチャンになるのが一番自然な環境であったと言えるでしょう。

 しかし信仰というのは、神と私との個人的な出会いを土台とするものです。
 「この方がほんとうに救い主だ」と知るためには、「自分で聖書から聞く」ことが不可欠です。
 私には青年期に到るまで三回の信仰的な体験があるのですが、それはいずれも他に誰もいない、神とわたしとの個人的な時間の中で起こりました。
 
 わたしに聖書を与えてくれた母や、イエス・キリストを指し示してくれた牧師には感謝しています。
 しかし私を救ったのは神御自身でした。
 私もまた一人の牧師として、キリストとの個人的な出会いとつながりを指し示していけますように。

「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。
 あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、
 主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
 私が植えて、アポロが水を注ぎました。
 しかし、成長させたのは神です。
 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。
 成長させてくださる神なのです。」
  第1コリント3:5-7

今日の聖書/「私ではなくキリストへ」ヨハネの福音書3章30節

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 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストを指し示し続けました。
 その結果、ヨハネの回りから人々が離れていき、キリストのもとに集まりました。
 キリストの十二弟子の中にも、かつてヨハネの弟子であった者もあります。

 注目するべきことは、ヨハネはその状況を心から喜んでいる、ということです。
 ヨハネこそ、誰よりもキリストを愛していました。
 また、弟子や人々を愛していました。

 愛は、愛する対象から愛されることよりも、対象の幸福を願うものです。
 キリストこそ真の救いを与える神である以上、人々がヨハネよりもキリストに従うことを、彼は心底喜ぶことができたのです。

 牧師もそうでなくてはなりません。
 「牧師でも間違えることはあるけど、イエス様は真実じゃ」と言われたときは、牧師は心から喜ぶべきです。
 
 不思議なことに、牧師が親分になって教会のトップに立っているときのほうが、教会が一枚岩でまとまって見えることがあります。
 しかし、私はどうしてもその形に平安がありません。
 信徒さんたちには「あなたとキリストの関係です」と言い続けたいと思っています。
 誰もがキリストとの個人的な関係に招かれており、その愛の中の自由と平安こそ、生涯に渡るいのちのよろこびの源なのですから。

「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。
 あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、
 主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
 私が植えて、アポロが水を注ぎました。
 しかし、成長させたのは神です。
 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。
 成長させてくださる神なのです。」
  第1コリント3:5-7

今日の聖書/「十字架のため」ヨハネの福音書2章19節

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 このことばは、「カナの婚礼」の出来事の直後に記されています。
 それはつまり、イエス・キリストが宣教を開始された時期の出来事、ということです。

 その時にすでに、イエス様は十字架と復活について語られているのです。
 十字架に架けられるための歩み・・。
 その苦痛と辱めを思う時、本当にストレスフルな人生にも思えます。
 けれど、イエス様は愛ですべてを超克しました。
 いや、喜びをも胸に抱いて、人類のための十字架に向かっていったのです。

 キリストを見つめる時、勇気と喜びをいつも頂きます。
 今日もまた、あなたを見つめる日とさせて下さい。

「信仰の創始者であり、
 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、
 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、
 神の御座の右に着座されました。」
    ヘブル12章2節

今日の聖書/「すべての人を照らすそのまことの光」ヨハネの福音書1章9節

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 キリストは光である、と聖書は教えます。

 それは、私にとって事実です。
 キリストを知る以前は、私は見えているようで見えていませんでした。
 自己中心な物の見方しか出来ず、正しく物事や人を見る力を持ちませんでした。
 しかし、キリストを心にお迎えした時、世界の見え方が変わりました。
 また、自分自身の見え方も変わりました。
 神さまとの関わりの中で、私も人もすべての存在がはっきりとするのです。
 また、キリストの光は愛の光なので、私は、愛の中にある自分を見出しました。

 キリストは光である、と聖書は教えます。
 そして、私を照らすだけではなくて、「すべての人を照らす」と約束されています。
 この方の光を喜びながら、世の一隅を照らすのが、すべて救われた人の使命です。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、
 私の道の光です。」詩篇119:105

2014年YBA春キャンプ(中高生 3/27Thu.-28Fri.)

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 高校生たちが企画して行われる春キャンプ。
 たったの一泊二日。されど一泊二日。
 聖書のことばを受け止めて、新しい歩みへ。

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今日の聖書/「暗い顔つきのその理由」ルカの福音書24章17節

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 我が家にはテレビはありませんので、オリンピック中継は、NHKと契約して一日遅れでパソコンで見ています。
 浅田真央ちゃんが、ショートプログラムで非常にかわいそうなことになった、というのは聞いていましたが、翌日フリーでは会心の滑りを見せた、というのも知っていました。
 ですから、昨夜ショートプログラムで沈鬱な顔つきで滑る真央ちゃんを見ていても、その後の呆然としたインタビューを見ていても、「大丈夫!明日あなたは見事な滑りをするよ!」と言いたい気持ちでした。

 今日の箇所で、イエス様の弟子たちは、復活のイエス様が近づいているのに暗い顔つきをしています。
 愛するイエス様が死んでしまった・・と思いこんでいるからです。
 イエス・キリストが、死んだままでいるはずはないのに。

 キリストがご一緒におられるのに、それに気づかないでいる時、私たちは暗い顔つきになります。
 しかし、目が開かれて、いつもイエス様がご一緒であることを知る時に、私たちの心にも表情にも明るさが宿ります。
 私を愛し、私の今日を導かれる主が、共におられるのですから。

「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」 詩篇43:5