カテゴリー別アーカイブ: 雅歌

今日の聖書/「相思相愛」雅歌6章1節

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 神と人との関わりが、男女の恋物語になぞらえてうたわれている、とされる雅歌ですが、この箇所ではお互いがお互いのものである、との告白が記されています。

 ここで大切なのは、相手を束縛する意味での「・・のもの」ではない、ということです。
 相手に献身しあう、という意味での「・・のもの」なのです。
 私はあなたのものです、とささげており、また相手からの献身も疑わずに信頼しています。

 神さまが私たちと持とうと願われているのは、このような愛のやり取りなのです。
 イエス・キリストは私たちに献身してくださいました。この愛に応答する人は幸いです。

「キリストは神の御姿である方なのに、
 神のあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、
 死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
    雅歌6章3節

今日の聖書/「神の花嫁」雅歌4章12節

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 雅歌に出てくる娘と王の恋は一途です。まさに純愛で、お互いのことしか見えていません。お互いのためだけにお互いが存在しています。
 ですから、雅歌は劇や小説にはなりにくいでしょう。いわゆる恋敵が出てこそ、ドラマチックな展開になるからです。
 
 王は娘のことを「私の妹、花嫁」と呼びます。彼女を愛する思いは100パーセントの純度で、他の要素が入り込む要素はありません。
 娘は「閉じられた庭」であり、王のためだけに心のすべてが開かれます。

 ここに神さまと私達の関わりを見る思いです。
 私の心のすべてを知る方は、神さまをおいて他にはありません。
 私が全生涯をお捧げしてお仕えする方は、唯一無二の主であり、それは私のために十字架に架かられたイエス・キリストです。
 
 聖書はクリスチャンのことを神の花嫁、と呼びます。
 永遠の愛で愛され、その愛に応えて生きる。そんな幸いな生涯にすべての人は招かれているのです。

「というのも、私は神の熱心をもって、
 熱心にあなたがたのことを思っているからです。
 私はあなたがたを、清純な処女として、
 ひとりの人の花嫁に定め、
 キリストにささげることにしたからです。」
   第2コリント11:2

今日の聖書/「会いたくて、会いたくて」雅歌3章2節

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 エルサレムの乙女は、どうしても恋い慕う王に会いたくて、夜中の市街を捜し歩きます。

 同じように、信仰者も神さまを慕い求めて祈ります。
 そして、乙女がついに恋人を見つけるように、神さまもまた祈り求める人に出会ってくださるのです。

 イエス・キリストの十字架以降、クリスチャンにとっては神さまは非常に身近な存在となりました。
 いつ、どこで祈っても神さまに祈りは届きます。

 しかし、旧約時代は、神さまはどこまでもかけ離れた存在でした。
 旧約時代の人たちが、会いたくて会いたくてたまらなかった方と、クリスチャンは永遠に生活を共にすることが許されているのです。

 大きな恵みの中に今あることを感謝し、いつでも祈る者でありたいと願います。

「そればかりでなく、私たちのために
 今や和解を成り立たせてくださった
 私たちの主イエス・キリストによって、
 私たちは神を大いに喜んでいるのです。」
   ローマ5:11

今日の聖書/「愛が目ざめたいと思うときまでは」雅歌2章7節

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 雅歌の中のヒロインは、他の娘達に強く願っています。
 私の恋をそっと見守っていてください、と。
 本当の恋が生まれ、結婚の愛へと進もうとしています。
 その目ざめの時は神さまの手の中にあるのであって、人が無理矢理に育てるものではないのです。

 雅歌が神と人との絆をたとえる詩であると理解するなら、この「愛がめざめたいと思うとき」というのは、人が神を愛するとき、ととらえることができるでしょう。

 救いを求めて人が教会に訪れるとき、牧師は聖書の手ほどきをさせていただいたり、祈りの仕方を教えたりすることができます。
 しかし、その人が神さまの救いを受け入れるの瞬間は、人工的に作り出すことはできません。
 それは洗脳であって、信仰ではありません。

 人とが神が出会う時。
 それが、いつどんな時なのかは、神さましか知らないのです。

 もしも私の中に、目の前の人を救って差し上げたい気持ちがつのったとしても、揺り起こしたり、かき立てたりしてはならないのです。
 神さまとその人の時に、誠実に仕えることができますように。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしは、彼のところに入って、
彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
黙示録3:20

今日の聖書/「熱い恋にまさって」雅歌1章15節

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雅歌に入ります。
原題は「歌の中の歌」であり、内容はラブソングです。

神さまについての直接の言及はありませんが、歌の中心にいる王が神さまを表しており、その王の妃となる女性が人を表しているとされています。
つまり、神と人との関わりが男女の恋になぞらえられているのです。

人間が生涯に持ちうる、もっとも情熱的な愛は、恋愛でしょう。
恋愛は男女に爆発的なエネルギーをもたらします。
しかし、その期間は長くありません。燃え盛る時期は短く、感情の高まりはやがてしずまります。

神さまの私たちに対する愛を表現するのに、聖書は人間の持ちうる最大の愛を例えとして用いているのです。
ただ、神さまの愛には期限はありません。冷めていくことも、変質することもありません。
神さまが「わが愛する者」と言うとき、それは永遠の意味を持つのです。

「花婿が花嫁を喜ぶように、
あなたの神はあなたを喜ぶ。」
イザヤ62:5