カテゴリー別アーカイブ: 第2歴代誌

今日の聖書/「早くからしきりに使いを」歴代誌第2 36章15節

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 いよいよエルサレムが滅びようとしていました。
 エジプト、そしてバビロンが攻めてきては王を捕らえて連れて行きました。
 にもかかわらず、新しい王は神さまに立ち返ることをせず、罪を犯し続けました。

 そんな中、神さまは、しきりに使者(預言者)を遣わして、警告し、国を救おうとしました。
 けれど、人々は聞かなかったのです。

 神さまは愛のゆえに、滅びゆく人々に使者を遣わされます。
 「早くから」、「しきりに」とあるように、あきらめることなく語り続けられるのです。

 私もささやかな一人のしもべとして、今の時代への一人の使いとなれますように。
 みことばをお届けする仕事を、神さまが私のようなものに与えてくださることを感謝します。
 クリスチャンはみな、あわれみの使者として、神さまに遣わされているのです。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
しかし、信じたことのない方を、
どうして呼び求めることができるでしょう。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
次のように書かれているとおりです。
「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
  ローマ10:13-15

今日の聖書/「人々が神に立ち返るためなら」歴代誌第2 35章7節

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 ヨシヤ王は、発見された聖書のことばにしたがって、過越の祭りを復活させました。
 これは、イスラエルの出エジプトを記念する祭りであり、自分たちが神に救出された民であるという原点を覚える行事でした。

 ヨシヤ王はそのために、私財を用いておびただしい準備をしています。
 国民が神に立ち返るためなら、どんな犠牲をもいとわない覚悟がうかがわれます。

 私の恩師たちは、よく私に本を与えてくれました。
 高いものもありましたが、私の人生のために役立つ一つ一つでした。
 そんなことも思い出しています。

 愛する、ということは、犠牲を払うことです。
 また、愛する、ということはその人が神さまに立ち返ることを何よりも望むものです。
 それゆえ、クリスチャンは、友が神さまに立ち返るためなら、喜んで犠牲を払うのです。

 神さまはひとり子を犠牲にして、私達を救ってくださいました。
 私も神さまのために、また友のために、どんな犠牲も惜しまずにささげたいと願うのです。

「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、
 またある人々を、 恐れを感じながらあわれみ、
 肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。」
    ユダの手紙22-23節

今日の聖書/「ことばを与えられる神さま」歴代誌第2 34章19節

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 ヨシヤ王は、年若くして、国の乱れを正し、もう一度神さまに立ち返ろうとしました。
 当初彼が取り組んだのは、偶像を取り壊し、神殿を建てなおすという「かたち」を正す改革でした。
 そんな時に、聖書(モーセの律法)が発見されます。
 彼はそれを読んだとき、衣を引き裂いたと記されています。
 神さまのみこころがみことばを通してはっきりと記されており、何が善で何が悪か、が明確に語られていたからです。
 いくらかたちを整えても、心にみことばがなければ、人は正しく神さまの前を歩むことはできないのです。

 ここに、私たちが聖書を読み続ける理由があります。
 神さまは、ことばで語られる方なのです。
 いえ、誤解を恐れずに言えば、私たちが神さまのみこころを知るために、人類には言語が与えられていると言えるでしょう。
 
 言語とはいったい何なのか、これは未だに解明されていない不思議な仕組みです。
 人間だけが、言語で会話し、思考し、記録し、祈ります。
 言語どのようにして発生したのか、多くの言語がどのように分類できるのか、言語と「心」はどのように医学的に説明できるのか、未だに科学は解明できていません。

 しかし、聖書は「初めにことばがあった」と教え、神と人とをつなぐ「ことば」を指し示します。
 聖書によって神のことばを受け止め、祈りによって私のことばを神さまに伝える。
 そんな対話的な関係を、神さまは私たちに与えてくださるお方です。

まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、
あなたの口にあり、あなたの心にあって、
あなたはこれを行うことができる。
  申命記30:14

今日の聖書/「こらしめをも与えてくださる神さま」歴代誌第2 33章13節

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 先日青年たちと賛美集会のための打ち合わせをしました。
 「何を賛美したいの?」「あなたは神さまについて、どんなことを思わされているの?」
 と尋ねたたところ、一人ひとりが神さまから個人的に教えられていることを教えてくれました。

 「試練の中でも、共にいてくださる方です。」
 「間違ったことをした時に、それを正し、それでも見捨てないお方です。」
 「いつもはすごく優しい方ですが、こらしめをも与えてくださる方です。」

 これらのことばは、「信仰をもったら全部ハッピー」という浅薄な教えではありません。人生の現実の中で、弱い自分自身に、直接的に関わってくださる神さまのことを、一人ひとりが味わっていることを意味しています。

 マナセ王は、大きく神さまにそむきました。
 その結果、アッシリヤに敗北し、鎖をかけられてバビロンに連れて行かれるようなことになったのです。
 しかし、そのこらしめの中で、マナセは心から悔い改めたのです。
 神さまは、こらしめをも与えてくださる方です。

 天の父よ、と私たちは神さまに祈ります。
 父親なら、いつもゆるしてばかりではありません。こらしめを与えられます。
 愛しているからです。
 そうです。神がときおり警告やこらしめを与えてくださるのは、そこに親が子を思うまことの愛があるからです。

「訓練と思って耐え忍びなさい。
 神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
 父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、
 私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」
   ヘブル12:7-8

今日の聖書/「捨てるべきもの ー高ぶりー」歴代誌第2 32章26節

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 国全体を神さまに立ち返らせたヒゼキヤ王ですが、晩年には失敗を犯したことも記されています。
 それは「高ぶり」でした。

 高ぶり、それは、誰の心にも起こりうる、単純かつ強力な罪です。
 私たちは成功を収める時に高ぶり、賞賛の中で慢心します。
 良い成績や数字に恵まれると自分を誇り、他の人達を見下すのです。
 そして、高ぶる人は、高揚を得、平安を失います。

 人々を見下すので、身の回りの人間関係に違和感が生じます。
 誉れに重心を置いているので、栄誉が去ることを恐れます。
 自分ばかりを見ているので、神さまに目を向けないため、視野が狭く、暗くなります。

 つまり高ぶりとは、わなであり、自分で自分の首をしめる心の麻薬なのです。
 王であっても、幼子であっても、この失敗を犯します。
 なのに、自力ではこれを捨てることは大変難しいのです。
 なぜなら、高ぶりの根っこは、人の本質的な罪である自己中心に深く根を下ろしているからです。

 高ぶりとは無縁である、自分は無価値な人間だから、と卑屈になる人は、実は危険です。
 その人も、人との比較で生きているという点で同質だからです。そして、自分の価値を自分で決めている、という点においても。

 もしも高ぶりを捨てたいなら、あらためて、一人の小さな存在として神さまの前に立つことです。
 「神さま、私はここにいます。あなたについて、わたしについて、教えてください。」と祈り、聖書に聴くことです。
 そうすれば、どんなに自分がみじめな罪人か、ということが分かります。
 しかし、その私のためにキリストが命を捨ててくださった恵みも分かります。
 計り知れない神の愛に触れるとき、私たちは、高ぶりから自由になることができるのです。

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、
あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、
真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネ8:31-32

今日の聖書/「ささげもので生かされる幸い」歴代誌第2 31章4節

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 牧師さんってどうやって生活費を得てるんですか?と聞かれることがあります。
 いろいろな牧師のケースがありますが、私を含めて多くの牧師は教会からの謝儀(給与)を頂いて生活しています。

 山陽教会の場合は、純粋にみんなの献金だけで教会のすべての運営がなされています。
 
 献金とは感謝のささげものです。
 教会の会計が満たされている、ということは、信徒さんひとりひとりが感謝して生きていることを表します。
 そのような信仰の結果の中で、私の生活も満たされていることを思う時に、神と教会に仕える働きに改めて感謝させられます。

 そして、私もまた主の働きに「専念」したいのです。

わたしに仕えるというのなら、
その人はわたしについて来なさい。
わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。
もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
  ヨハネ12:26