カテゴリー別アーカイブ: 第2列王記

今日の聖書/「こうして、ユダはその国から捕らえ移された」列王記第2 25章20節

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 歴史において「バビロン捕囚」として知られる出来事です。(→Wikipedia
 人々は、この日が来るまで、罪にふけることをやめませんでした。
 どうせ終わりなど来ない、と思っていたのです。
 古くからの聖書のみことばは絶対であったのに、それを軽んじたのです。

 列王記に記されていることは歴史上の事実であると同時に、私たちに対する預言的警告です。
 この世界が最後にはさばかれることを、聖書は預言しています。
 しかし、世界は罪に向かい、神様の言葉をふりかえろうとしません。

 その時代の中で、教会は、救いの喜びを指し示しつつ、みことばを伝え続けていきます。

義の実を結ばせる種は、
平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。
  ヤコブ3章18節

今日の聖書/「ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである」列王記第2 24章20節

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 神さまは忍耐の神です。
 また、人の罪が社会を滅ぼすのをいつも守っていてくださいます。

 元航空幕僚の牧師がこう言っていました。
「戦後70年間、我が国が戦争をしなかったのは、平和憲法のおかげではなく、安保条約があったからでもなく、自衛隊の力でもありません。
 神さまが守っていてくださったからです。」
 はっとさせられる言葉でした。

 考えてみれば、私たちは圧倒的な神さまの恩恵の中に守られ、生かされています。
 私たちはそれに気づいていなさすぎるのです。

 しかし、神さまは、人間の罪が過度に膨れ上がる時に、それがどのような結果を引き起こすのかを、私たちに味わわせます。
 守りの手をゆるめるのです。

 それは、私たちにとって痛みを伴う警告です。
 しかし、それらの戒めの中で悔い改める人は幸いです。
 それでも悔い改めることをしないなら、最期には永遠の滅びが待っているのです。

 聖書は愛なる神からの救いの恵みで満ちています。
 しかし、旧約聖書のいくつかの書物には、その救いが当たり前のものではなく、救いを拒み続けた先には、聖なる神の裁きが決定づけられることをはっきりと示しています。

 キリストの十字架は、信じても信じなくてもよいものではありません。
 激流に流され、滅びの淵に向かう遭難者のために、自分の身を投じてレスキューする人のように、キリストは来てくださいました。
 その愛の呼び声が聞こえるならば、迷うことなく応答なさるべきです。

わたしは正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。
  ルカ5:32

今日の聖書/「王は律法の書のことばを聞いたとき」列王記第2 22章11節

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 ヨシヤ王の時代には、聖書の言葉が日の目を見ることがあまりなかったようです。
 人々がおのおの自分の良いと思うことをしていた、現代と似た状況と言えるかもしれません。
 しかし、神殿で律法の書(旧約聖書・モーセ5書)が見つかりました。

 そのことばに触れたとき、王は衣を裂いたのです。

 神の前に、自分たちが犯してきた罪がどのようなものであったか、をはっきり知らされたからです。
 聖書の言葉は光です。すべての暗闇を照らし、神のみこころを明らかにし、罪をあばきます。
 実際には善悪については、私達の良心は正しく判別をしているはずです。しかし、人は自分をもごまかすことのできる存在で、様々なことを薄暗がりの中であいまいに処理しようとします。
 しかし、聖書は神の前に私達を立たせるのです。
 その時に、正直に自分の罪を認める人は幸いです。

 なぜなら、聖書には罪を悔い改める者への救いの道もまた、明確に教えられているからです。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、
たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、
心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
  ヘブル4:12

今日の聖書/「神を悲しませること」列王記第2 21章4節

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 神を悲しませること、それは、神でないものを神とすることです。
 まことの神は、あなたを造り、あなたを把握し、あなたを愛する方です。
 しかし、人は自分の想像力の中で、あるいは自分の都合によって、神々を造り、また仕えます。

 世界でもっとも礼拝されている偶像は、金銭でしょう。
 お金で人は判断し、お金をより多く得られる方をのみ選択します。
 それを金銭崇拝と言います。

 あるいは、人に依存し、人に支配される場合もあります。
 偶像は英語でアイドルと言います。

 もしくは、自分の力で生きていく、努力すれば何でもできる、と思っているとするなら、自分自身を神としているわけです。

 実際には人はみな驚くほど無力で、今日もあらゆる自然界の恩恵によって生命維持してもらっている存在です。
 また金銭は人を奴隷にはするけれど、真に大切なものを買い取るには無力です。(平安や友情、継続的な誠実など)
 
 まことの神は今日も生きておられ、聖書を通して語りかけ、忍耐強くあなたの応答を待っておられます。
 この方を求めるならば、必ず神さまは出会ってくださるのです。

この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネ1:10-12

今日の聖書/「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」列王記第2 20章5節

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 神さまは祈りを聞かれる方です。
 そして涙を見てくださる方です。

 ですから、私たちは思いのままを祈りましょう。
 心の悲しみも、この方には隠さずにあらわしましょう。

 イエス・キリストは十字架に架かるほどに私たちを愛されました。
 私の祈りと涙を、決して軽んじられないお方です。
 どんな闇からも、救ってくださるお方なのです。

見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
  黙示録21:3-4

今日の聖書/「実は偉大なプランナーがおられたという」列王記第2 19章25節

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 大国アッシリヤは勘違いをしていました。
 これまでの戦勝を彼らは誇りましたが、それは神さまの許しがあってのことでした。
 勘違いとおごりの中で、エルサレムを攻め、神に従うヒゼキヤ王に対してあからさまに神を愚弄したアッシリヤは、この後大敗を期すことになります。

 私たちは自分の人生の成功を、すべて自分の手柄として誇るべきではありません。
 それは愚かな勘違いです。
 私たちは自分で呼吸する酸素すら作り出せません。
 生かされている存在であり、偉大なプランナーである神さまの形作る歴史の中で生かされている存在です。

 神さまは不可能はないお方でありつつも、私達に選択の自由は保障しておられます。
 神の前で自分が何者であるかを知り、この方の前にへりくだる人は幸いです。
 なぜなら、神の本質は愛であり、神と共に歩む人は、愛に満たされて、神の計画される将来を待ち望みながら今を生きることができるからです。

イエス・キリストは、きのうもきょうも、
いつまでも、同じです。
  ヘブル13:8