カテゴリー別アーカイブ: 民数記

今日の聖書/「満ち足りて主を忘れる」申命記6章12節

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 長い荒野での旅路を終えて、約束の地での充足と安定が与えられようとしていました。
 モーセは、その満たされた生活に潜む危機について警告しています。

 試練の中で人は祈ります。
 戦いや困難の中で、懸命に神さまにすがります。
 しかし、安定と豊かさの中で、心はゆるみ、罪の本質が首をもたげるのです。
 すでに昔より豊かなのに「もっとほしい」と願うのです。
 神さまにすがらなくも生きていける気がして、「あっちの偶像にも興味湧いてきたな」とかつぶやいたりするのです。

 そんな中で、人々の信仰の本質が明らかになります。
 彼らの信仰は、「安定のための信仰」でした。自分なりの安定を得たら、神さまが必要ではなくなったのです。

 イエス・キリストが教えてくださった信仰は、神との生きた交わりです。
 貧しい時も富むときも、変わることのない愛のつながりです。
 ここにこそ、本当の喜びと充足があります。

 それこそ、神がお与えになりたい「神の国」なのです。
 目に見えるものに心を奪われることがありませんように。
 主よ、あなたを見つめる今日とさせてください。

「私たちは、見えるものにではなく、
 見えないものにこそ目を留めます。
 見えるものは一時的であり、
 見えないものはいつまでも続くからです。」
   第2コリント4章18節

今日の聖書/「神の与えられたところにとどまる」民数記36章7節

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 カナンの地に住むことになった場合、各部族に神さまが割り当てられた土地は代々守るように、と教えられます。
 そこが神さまからそれぞれに与えられた居場所だからです。

 長い荒野での旅路では、彼らはみこころのままに移動し続ける従順さが養われました。
 そして約束の地では、今度は置かれば場所に定住することを命ぜられているのです。

 イエス・キリストもまた、私たちに定住するべき場所を命じられています。
 それは、キリストの愛の中です。
 ここに身を置くとき、平安と喜びがあります。
 ここに身を置くことは、すなわち天の御国に居場所を持つということでもあります。

 旅するときも、どこかに住むときも、いつでも私の心の置きどころが、あなたの愛の中でありますように。

「父がわたしを愛されたように、
 わたしもあなたがたを愛しました。
 わたしの愛の中にとどまりなさい。」ヨハネ15:9

今日の聖書/「わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない」民数記35章34節

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 旧約聖書の特に民数記やヨシュア記などを読むと、「聖戦」をする旧約のイスラエル人も、過激なジハードを展開する「イスラム国」も似てはいないか、という感覚を覚える方もあるでしょう。

 しかし、実際にはいろいろな違いがあります。
1.イスラエルの「約束の地」は地理的に狭く、現イスラエル領土を少し大きくしたくらいです。
「イスラム国(ISIS)」の野望はスペインからインドまでを覆う広大な領土の侵略支配です。
2.イスラエルは「約束の地」において平和な国家を築き、平和的に他国との関係を持つ中で、神を証ししたソロモン王の治世が一つの完成形ですが、イスラム国はより戦闘的であり異教徒殺害に積極的です。
3.イスラエルの民の目的は神への誠実さであり、他国への怨恨や憎悪はさほど見られませんが、「イスラム国」はアメリカへの恨みと憎しみを強く持っており、宗教の名を借りた復讐の戦いの面を強く持っています。
4.「イスラム国」の戦闘員は世界から集まりますが、それは殺人や暴力という人間の罪の方向性を正当化してくれる人(カリフ)がいるからというのも理由のひとつです。旧約聖書のイスラエルでは、罪は罪としてさばかれ、神を悪の理由付けとして用いるようなことは許されませんでした。

 今日の章では、「のがれの町」の規定が記されています。
 あやまって人を殺してしまった人が、裁判を受ける前に復讐されることがないように、逃げ込める町が作られたのです。
 その理由として、神の与えた土地には神が住まわれるのであって、復讐のためにいたずらに血が流されてはならない、と記されています。

 自分たちが住んでいる土地は、私の地であると同時に、神の住まわれる場所である、という聖なる恐れが民にはありました。
 そこには、人間の肉の欲にまかせた暴力や圧政はあってはならなかったのです。

 もちろん、イエス・キリストが来られた今は、旧約聖書の時代のように剣を持つ必要はなく、さらに平和的に教会は社会と関わり平和を作り出していくべきです。
 ただ、旧約聖書の時代のイスラエルもまた、神の正しさを何よりも意識した生活を目指したという点において、「イスラム国」のあり方と同一視されるべきではないと思うのです。

 私の今日の日常も、神さまが共におられることを意識したものでありますように。
 私の生活に臨在してくくださるキリストに感謝します。
 平和をつくるものにさせてください。

「私の子どもたち。
 私がこれらのことを書き送るのは、
 あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
 もしだれかが罪を犯すことがあれば、
 私たちには、御父の前で弁護する方がいます。
 義なるイエス・キリストです。」第1ヨハネ2:1

今日の聖書/「約束のままに」創世記34章1節

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 ついに、イスラエルの民がカナンの地の具体的な境界線について告げられています。
 長い宿営生活を送っていた民の中には、本当に約束の地に住めるのだと信じ切れない人たちもいたかもしれません。けれど、まさに現実になろうとしていました。

 はるか昔、アブラハムに対して神さまが「この地を与える」(創世記12:7)と約束されたことが、成就しようとしていました。

 神のことばの重さというものを感じさせられます。
 神は一度約束された以上、必ずそれを果たされます。

 旧約聖書の記述は、繰り返し、繰り返し神の誠実さを教えます。

「主は遠くから、私に現れた。
 『永遠の愛をもって、
  わたしはあなたを愛した。
  それゆえ、わたしはあなたに、
  誠実を尽くし続けた。』」エレミヤ31:3

今日の聖書/「旅を導かれる神」民数記33章5節

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 出エジプトの旅程がまとめられた章です。
 「宿営した」という言葉が40回以上出てきます。

 イスラエルの民は、荒野で長い旅をしたのです。
 百万を超える民を神さまは養い、導かれ続けました。

 定住地を持たず、家を持たない天幕生活は、つねに神さまに生活をゆだねる日々です。
 しかし神さまは彼らを背負い続けました。

 私達の人生の旅も、神さまに背負われています。
 十字架をも背負われた方は、私達を見捨てることはなさいません。
 ゆだねつつ、一日一日を神とともに歩みたいと思います。

「わたしに聞け、
 ヤコブの家と、イスラエルの家の
 すべての残りの者よ。
 胎内にいる時からになわれており、
 生まれる前から運ばれた者よ。
 あなたがたが年をとっても、
 わたしは同じようにする。
 あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。
 わたしはそうしてきたのだ。
 なお、わたしは運ぼう。
 わたしは背負って、救い出そう。」イザヤ46:3-4

今日の聖書/「あなたがたの口から出たことは実行しなければならない」民数記32章24節

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 ミデヤン人と戦って得た牧草地は、ルベン族・ガド族にとって魅力的な土地でした。彼らはおびただしい家畜を持っていたからです。
 ですから、ヨルダン川を超えて約束の地(現イスラエル)を得たとしても、ミデヤンの地をこそ所有地として希望しました。
 しかしヨルダン川を越えていく戦いには、自分たちも戦闘に立って戦う、と約束をしたのです。

 モーセは、その誓いを必ず守るように、と語ります。
 口から出たことは実行しなければならない、と強調するのです。

 神さまの口から出たことは必ず実行されます。
 聖書で神さまのご性質を現す大切な用語にヘセドというヘブル語があります。誠実と訳されることが多いですが、その意味は「約束を守る愛」です。
 愛は、約束を守るのです。

 わたしは日常生活でどんな約束をしているでしょう。そして、本当にその約束に責任を持っているでしょうか。
 私の口から出たことは、実行されているでしょうか。

 主よ、あなたの民にふさわしく、言葉と行いが一つになりますように。

「初めに、ことばがあった。
 ことばは神とともにあった。
 ことばは神であった。」ヨハネ1:1
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
 私たちはこの方の栄光を見た。
 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
 この方は恵みとまことに満ちておられた。」
  ヨハネ1:14