カテゴリー別アーカイブ: 伝道者の書

今日の聖書/「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。」伝道者の書12章13節

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 人にはみな、自由と責任があります。
 どう生きるか、は各人の判断です。

 しかし、思いのままに生きたところで、いつも空しさに出会います。
 永続する喜びはありませんし、消えない楽しみもないのです。
 すべてのものは移り変わり、やがて風化します。
 空の空。ただただ空しいのが、人生の常ではないでしょうか。

 結局のところ、もうすべてが聞かされていることです。
 神と共に生きることです。
 神のことばに聞き従うことです。
 その時ひとは、自分が何者であり、どこから来てどこへ行くのかを知ります。
 人生は漂流ではなく、還るべき天の故郷への旅路となります。

 自分の手にある自由を、神と出会い、神のことばに耳を傾けるために使う人は幸いです。
 その人は永遠の神とのつながりのなかで、かけがえのない今を生きるのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、
 すなわち、その名を信じた人々には、
 神の子どもとされる特権をお与えになった。」
   ヨハネ1:12

今日の聖書/「風を警戒している人は種を蒔かない」伝道者の書11章4節

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 種は蒔き続けるものだ、と伝道者は教えます。
 撒けば芽が出るからです。蒔かなければ収穫はありません。

 「あの人に良くしてあげても、どうせ反発されるだけだ」 
 「今キリストを語っても、否定されるだけだ」
 「みことばに聞き従っても、徒労に終わるだけだ」

 そんな悲観的な展望、あるいは言い訳のなかで、結局なんの種も蒔かないまま人生が終わるとするなら、なんと無駄な生涯でしょう。

 私の本当にささやかな経験をふりかえるなら、祈りつつ蒔いた種が思わぬ実を結んだ、という経験を多くしています。いや、その結果に包まれて生きている、とも言えるでしょう。

 今日も風が強い日かもしれません。
 悪天候を告げる雲が見えるかもしれません。

 それでも種を蒔き続けたいのです。
 神さまの大きな計画の中で、時が良くても悪くても、種蒔きに励みたいのです。
 神さまがその種を成長させてくださる方だからです。

「すると、イエスは彼らに答えて言われた。
『人の子が栄光を受けるその時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。
 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
 しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』」
    ヨハネ12:23-24

今日の聖書/「悪意は空を飛ぶ」伝道者の書10章20節

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 人への悪意は、必ずいつか相手に伝わります。
 のろい、妬み、怒り、憎しみ。
 それは、あたかも鳥が運ぶかのように、相手に知られるのです。
 隠し通すことはできません。

 言葉遣い、表情、行動、ひとつひとつが雄弁に語ります。
 その結果、その人は自分自身の人生に大きな損失を加えることになります。
 
 もしも心に人への悪意があるなら、それをそのままにするべきではありません。
 神さまの前に持ちだして、その思いを取り扱っていただくことです。
 キリストは必ず、その人を助け、憎悪の罪から守ってくださいます。 

「キリストこそ私たちの平和であり、
二つのものを一つにし、
隔ての壁を打ちこわし、
ご自分の肉において、
敵意を廃棄された方です。」
    エペソ2:14-15

今日の聖書/「おいしくご飯を食べよう」伝道者の書9章7節

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 伝道者の書は、深遠な思索の書であり、人生の悲哀や憂いについても多く言及します。
 けれど、そこから生まれる具体的な生活の提案は、シンプルで明るいのです。

 感謝しておいしくパンを食べること、心楽しくぶどう酒を飲むこと(当時のぶどう酒はアルコール度は弱く、ソフトドリンクのような扱いとのことです)。
 こざっぱりと身を整えて、自分の日々の働きに打ち込み、生活を楽しめ、というのです。
 大切なことは、今与えられているものを喜び、味わうことです。それを神さまは喜んでおられるから、と。

 クリスチャンは食前に祈ります。
 それは、目の前の糧を感謝するためです。
 一杯のご飯、一切れのパンにも、神さまからの恵みがあるのです。
 おいしくご飯を食べなさい。そんなすすめに、神さまからのごく親しい語りかけを感じます。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
 だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
 わたしは、彼のところに入って、
 彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
  黙示録3:18

今日の聖書/「悪口にふりまわされない」伝道者の書7章21節

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 陰口や悪口をいちいち気にしないように、と聖書は教えます。
 人には言わせておけばいいのです。
 それよりも、神さまからのみことばを意識することです。

 雑音はいつだってあります。そちらに心を捕らえられると、本当に聞くべき声を聞き損ないます。

 何時の時代であっても、悪口はあるのです。
 しもべは主人のことを悪くいい、部下は上司の陰口を話すのです。
 それは、驚くほど簡単に、思慮もなく話されるのです。
 それに振り回されて、心を左右されるのは、もったいないことです。

 「どんなふうに噂されるのだろう・・」「あんなことを言われていた。言われないためにはどうしたらいいのだろう・・」そんな風に気に病むとき、私たちは相手に支配されており、心の自由を失います。それだけではなく、相手に気兼ねして正しい関係を持てなくなるのです。

 大切なことは、不確かな人間のことばに翻弄されるのではなく、神さまのみことばに聞き従うことです。
 そうすれば、どう行動すればいいか分かります。
 そして、人から何を言われようが、こちらからはその人を愛し、正しい態度で接することができるのです。
 イエス・キリストもまた、どんなにあざけられ、中傷されても、怒ることなく、ご自分が果たすべき愛のわざ(十字架)を行われました。

「愛には恐れがありません。
 全き愛は恐れを締め出します。
 なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。
 恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
   第1ヨハネ4章18節

今日の聖書/「手応えのある幸せ」伝道者の書6章12節

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 ある若者が一つの夢を心に抱きました。
 大歌手になって、大きな家を建て、眺めのいい窓のある部屋で朝のコーヒーを飲む・・、それが彼の夢でした。
 血のにじむような努力の末に、彼は夢を実現させました。
 誰もがその名を知るような大物歌手になりました。そして、大きな家を建て、ある朝、窓の外を見ながらコーヒーを飲んだのです。
 その時、「こんなものか・・」とがっかりしたそうです。
 これぞ幸せだ、と思い描いて追い求めて来たものは、実現してみると随分と味気ないことだったのです。

 同じことが私たちの生涯に起こりえます。
 追い求めていたことも、手にしてしまえば輝きを失います。
 何をやっても手応えがなく、空しさだけが残ります。
 自分の願望や夢に縛られないことです。数分後に何が起こるかも知らない私たちに、どうして人生の目的など見定めることができるでしょう。

 神さまだけが、私たちの生涯に確かな目的を与えることができます。
 手応えのある幸せを味わいたいのなら、まず神さまに出会うことなのです。

「イエスは彼らに言われた。
『わたしについて来なさい。
 あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』
 彼らはすぐに網を捨てて従った。」
  マタイ4:19-20