カテゴリー別アーカイブ: レビ記

今日の聖書/「十分の一を惜しまずに主に」レビ記27章33節

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 全収入の10分の1を主にささげること。
 それを、私も子どもの時から聞いてきましたし、実践してきました。
 そして、それによってさらに恵まれた生活をしてきたように思います。

 考えてれば、この世界に生かされている以上、すべてのものは神さまからの恵みです。
 その一部を神さまにお返しすることで、感謝と愛を表すのです。
 神さまがここで望んでおられるのは、実際のささげもの以上に、神さまとの愛のやりとりです。

 33節の「その良い悪いを見てはならない」ということばは印象的です。
 神さまへの感謝のささげものにおいて、惜しむ心や、選ぶ気持ちは不要なのです。

 なぜなら、私たちは神さまに豊かに愛され、生かされており、何者にも縛られてはならないからです。
 愛を惜しむ時、私たちは自分で自分を不自由にしているのです。
 2015年も、惜しむことなく主にささげ、主に満たされる歩みをさせてください。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、
 強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。
 神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
   第2コリント9:7

今日の聖書/「なのに、見捨てない。」レビ記26章44節

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 神のことばを守るものにはあふれる祝福が約束され、みことばに背き続けるならのろいが記されています。
 しかしそののろいは、段階的です。

「もしこれらのことの後でも、
 あなたがたが、わたしに聞かないなら、
 わたしはさらに、あなたがたの罪に対して
 七倍も重く懲らしめる。」18節

 さらに、

「もし、あなたがたがこれらのわたしの
 懲らしめを受け入れず、
 わたしに反抗して歩むなら、
 わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。
 わたしはまた、あなたがたの罪に対して、
 七倍も重くあなたがたを打とう。」24節

 となるのです。
 つまり、神さまは好んで罰しているのではないし、悔い改めのチャンスを与えようとされるお方なのです。
 そしてついには、冒頭のことばが記されます。
 
 一度契約を交わした以上、神さまは民を見捨てることができないのです。
 ここに神の絶対的な誠実を見ることができます。
 すべて、イエス・キリストを信じて、神の子として歩みをする人は幸いです。
 その人は神の絶対の誠実の中で、約束により頼んで生きることができるからです。

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
 彼にはご自身を否むことができないからである。」
   第2テモテ2:13

今日の聖書/「ヨベルの年の解放」レビ記25章10節

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 古代イスラエルにはヨベルの年という50年に1度の特別な年が定められていました。
 その年は解放の年と呼ばれます。
 貧しくて売ってしまった土地が、その年には元の所有者に戻されるのです。
 また、やはり貧しくて身売りしてしまった人も、その年には自由人として買えることができます。

 土地も失い、自分の自由も失った人がヨベルの年にはすべてを取戻すのです。
 バラバラになっていた家族もまたもとの暮らしに戻れたのです。

 すべての人がいるべき場所に戻り、自由を得て神を礼拝する。それがヨベルの年の喜びでした。

 もうすぐ2014年も終わり、新しい年が来ようとしています。
 それは、イエス・キリストの再臨が近づいているということです。
 その日こそ本当のヨベルの年、ということができるでしょう。
 あらゆる束縛から解放され、神の御前で永遠の居場所を頂いて礼拝をする約束が、すべての信じる人には与えられています。

 大きな喜びの日が近づいていることを胸に覚え、希望を胸に今を生きたいと思います。
 今年最後の日曜日の礼拝。
 この幸いな一年に感謝しつつ。

「兄弟たち。あなたがたは、
 自由を与えられるために召されたのです。
 ただ、その自由を肉の働く機会としないで、
 愛をもって互いに仕えなさい。」ガラテヤ5:13

今日の聖書/「冒涜」レビ記24章15節

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 父親がエジプト人という男が、神を冒涜することばを語った、という事件についての記事です。
 結局彼のしたことは死に値すると宣告されました。

 神を冒涜するということは、いのちの対価を要求する罪なのです。
 人は神に造られた存在であって、恵みとあわれみの中で生かされている存在です。
 いかに感情的になるようなことがあったり、思い上がることがあったとしても、絶対にゆるされないこともあるわけです。

 しかし、実際にはいつの時代にも、神に逆らい御名を汚す罪を人は繰り返します。
 イエス・キリストはその人々のために十字架に架かられました。
 神の子である方が、はずかしめとあざけりの中、死刑に処せられたのです。
 その愛によって、唇の汚れた私もまた、赦されて神の子どもとして頂きました。

 赦された今は、本当に神さまを第一の方として、この平安を喜び歌いたいのです。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、
 使徒と呼ばれる価値のない者です。
 なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
 そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、
 私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。
 しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」
   第1コリント15:9-10

今日の聖書/「何も持たないようでも、すべてのものを持っている。」レビ記23章42節

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 イスラエルの祭りの中に「仮庵の祭り」というものがあります。
 木の枝で組んだだけの簡素なあずまやのようなものでで一週間キャンプ生活するのです。
 これは、主がしてくださったことを忘れないためです。

 長い荒野の旅の中、神さまはいつも彼らを養い、守られました。
 しかし、約束の地に定住して所有物が増えると、その恵みも忘れてしまったりするのです。
 ですから、仮庵の祭りをすることで、私と神さまとの関わりこそ最大の恵みであったことを思い出すのです。

 手を止めて祈る時間、すべてのことをわきに置く時間は大事です。
 なぜなら、神とのつながりがあるならば、何も持たなくても、すべてのものを持っているのと同じことなのですから。

「人に知られないようでも、よく知られ、
 死にそうでも、見よ、生きており、
 罰せられているようであっても、殺されず、
 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、
 貧しいようでも、多くの人を富ませ、
 何も持たないようでも、
 すべてのものを持っています。」第2コリント6:9-10

今日の聖書/「ありのままで。でも汚れたままではなく。」レビ記22章3節

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 「ありのままで」というのは、ディズニーアニメの影響もあり、今年も好んで世間で使われたことばです。
 キリスト教会でも「ありのままで」はよく用いられることばです。
 神さまの前にありのままで人は立つことができる、これは神の愛がもたらす大きな恵みです。
 神の前にありのままで立てるということは、それ以外のすべてのものに対して、自然体でいられるということです。
 神さまと共にあるなら、明日を恐れる必要はありません。
 神さまに愛されているなら、他者の顔色をうかがう必要はありません。
 「ありのままで」は、人生の歩み方を決定づける、神の恵みです。

 ただしそれは、汚れたままで、という意味ではありません。
 神さまの前には、誰も汚れたままで立つことはできません。
 罪を犯しながら、それを悔い改めることなく神の前に立つのは「馴れ馴れしさ」であり「冒涜」です。
 「じゃあ、罪ある私はどうしたら神の前に立てるのですか?」と思う人もあるでしょう。
 人はみな罪人なのに、汚れたままでは神の前に立てないのなら、誰も神に近づけない、ということになってしまいます。

 イエス・キリストがこの世界に来られたのは、まさにこのことのためです。
 私たちがありのままで神の前に立つことができるように、私たちの罪の罰をその身に受けるために、キリストは人として生まれてくださいました。
 私達に対する圧倒的な愛がここにあります。

 人は皆罪人ですが、その罪を神に告白するなら赦されます。
 キリストの十字架によって罪赦されて、ありのままで神とともに生きることができるのです。
 日ごとに悔い改め、日ごとに赦される、その繰り返しの中で人はますます神に近づいていくことができるのです。

「愛する者たち。
 私たちは、今すでに神の子どもです。
 後の状態はまだ明らかにされていません。
 しかし、キリストが現れたなら、
 私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
 なぜならそのとき、私たちは
 キリストのありのままの姿を見るからです。」
   第1ヨハネ3:2