カテゴリー別アーカイブ: ヨシュア記

今日の聖書/「労せずに実を結ぶ」ヨシュア記24章13節

IMG_4440.PNG
 自分が老苦したわけでもないのに、実りある生涯を頂く。
 これがクリスチャンの生活の特徴です。

 そして私の日々の現実です。
 私は牧師です。
 しかし、山陽教会を支えているのは私ではありません。
 真の牧師はイエス・キリストです。
 人々を救っているのは私ではありません。
 十字架と復活のイエス様が、一人ひとりに出会ってくださり、救うのです。

 私は、豊かな畑に派遣された農夫です。
 すでに穂は色づいていました。
 私は、大牧者のもとで寝起きをする牧童です。
 指示ののままに小さな働きをするだけです。なのに大牧者は感動は惜しみなく分けあってくださいます。

 もしも主の大きな導きがなければ、私は途方にくれてしまいます。
 私はぶどうの枝であり、幹であるキリストによって、生かされているのですから。
 決して枯れることのない、永遠の幹に。

「わたしは、あなたがたに
 自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、
 あなたがたを遣わしました。
 ほかの人々が労苦して、
 あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
   ヨハネ4:38

今日の聖書/「注意深い愛」ヨシュア記23章11節

IMG_4376.PNG
 神を愛するのに「十分に気をつけて」と年老いたヨシュアは民に説いています。

 愛するという行為には、注意深さが必要なのです。
 愛し続けるためには、十分に気をつける配慮が大切なのです。

 というのは、愛はいつも自己中心によって変質させられがちだからです。
 また、愛の対象がほかのもの(この場合は偶像)にすり替わる危険もひそんでいるのです。

 愛とはすなわち、力を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして相手を思うことであり、不純なものが入り込まないようにするための選択の連続なのです。

 愛するということは、対象を目的とするべきであって、手段としてはなりません。
 愛の対象は、自分の下位においてはなりません。対象を私よりも貴い存在とし続けるのが、愛し続けるということです。

 これが聖書の愛であり、イエス・キリストはまさにこの愛で私たちを愛しておられ、今も愛し続けていてくださるのです。

「私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。」
   第1ヨハネ4章10節

今日の聖書/「まっすぐに立てるとき」ヨシュア記22章22節

IMG_4346.PNG
 イスラエルで内戦が起こりそうな事件でした。
 ヨルダン川の向こう側に割り当て地を得た3つの部族が、独自の祭壇を築いた、という知らせが届いたのです。
 それは反逆である、とイスラエル全会衆は戦争の準備をしました。

 しかし派遣された10人の族長たちとの会談の際、嫌疑をかけられたかしらたちは、祭壇を作った本当の意味を語ります。
 それは、川によって分けられていても信仰が1つであることを表すためであり、ずっと後の世代になっても同じ神の民であることを子孫が忘れないためだったのです。
 そして、もちろん祭壇で礼拝をするときは川を越えて主の幕屋に出かけていく、と明言したのでした。

 誤解はたちまちに解けて、人々はみな満足しました。
 心に真実があれば、人は嫌疑をかけられてもまっすぐに立つことができます。
 大切なことは、人を恐れずに、本当に良いことは何かを考え、実行することです。
 
 神さまとともにあって、まっすぐに立つ者であらせてください。

「ところが、イエスは答えて言われた。
『今はそうさせてもらいたい。
 このようにして、すべての正しいことを実行するのは、
 わたしたちにふさわしいのです。』
 そこで、ヨハネは承知した。」
   マタイ3:15

今日の聖書/「誠実とは、約束を守ること」ヨシュア記21章43節

IMG_4261.PNG
 イスラエルの民は決して神さまに誠実であったとは言えません。
 しかし、神さまはどこまでも誠実でした。

 誠実とは、約束を守ることです。
 聖書を読む人は、書かれている約束を疑う必要はありません。
 神さまはいつだって、約束を守られました。
 一つもたがわず、みな実現したのです。
 そこまでして守るのですか・・というくらいに、一度立てた約束を守り続けます。

 イエス・キリストは、誠実のゆえに十字架の死にまでも従われました。
 それ以外に私たちを救うすべがなかったからです。

 永遠に信頼できる約束のことばをいただきながら、今を生きていけることに感謝します。

「損になっても、
 立てた誓いは変えない。」
詩篇15:4

今日の聖書/「逃げ場を用意される神さま」ヨシュア記20章5節

IMG_4160.PNG
 12部族の割り当て地が決められる中で「逃れの町」も定められています。
 これは、過失で人を死に至らしめてしまった人が、私刑からまぬがれるための居場所です。

 そういう人のための逃げ場も用意するようにと規定されているところに、神さまの細やかさと優しさを見ることができます。

 私たちも、時として追い詰められたり、おびやかされたりすることがあります。
 しかし、神さまはどんな時も私達の逃げ場となってくださるお方です。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
 神は真実な方ですから、あなたがたを、
 耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
 むしろ、耐えられるように、
 試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
  第1コリント10章13節

今日の聖書/「多くを持つのは分け与えるため」ヨシュア記19章9節

IMG_4142.PNG
 「どうして神は差別を作り出すのか」という質問を昨日いただきました。
 それに対する返事として、「神さまが差別を作ったのではないです」と答えました。
 分け与えることをしない人間が、時代の格差や差別を作っているのではないでしょうか。

 イスラエルの部族がそれぞれの割り当て地を決める時、多くの面積を得ていたユダ族は、シメオン族に土地を分譲しています。
 多くを持つのは、このように分け与えるためです。

 なぜ、自分だけが豊かになろうとするのか。
 そこに、人間の罪の本質はあぶり出されます。

 改めて、すべてをささげ尽くしてくださったイエス・キリストのことを思います。
 いのちまでも与えてくださった救い主の愛。その愛を知った人は、恐れることなく分け与える力を得ることができるでしょう。

 私もまた、惜しみなく分け与えることをさせてください。
 受ける喜びよりも、与える喜びを知るいのちを生きさせてください。

「兄弟たち。あなたがたは、
 自由を与えられるために召されたのです。
 ただ、その自由を肉の働く機会としないで、
 愛をもって互いに仕えなさい。」
ガラテヤ5:13