カテゴリー別アーカイブ: ネヘミヤ記

今日の聖書/「みことばに仕えるということ」ネヘミヤ記13章22節

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 捕囚後、再び神さまと共に時を刻み始めたかに見えるイスラエルでしたが、ことがらはそう単純ではありませんでした。
 指導者ネヘミヤが不在のとき、あるいは目の届かないところで、あらゆる過去の悪習慣が民の間に広まっていました。
 指導的な立場の者が、公私混同したり、異教徒との結婚、安息日に働く者、安息日に商売をしようとやってくる商人たち。

 ネヘミヤはそのたびに、聖書の律法にのっとった生活をするように、と断固とした態度を取り続けました。
 そんな中で彼は、「私をあわれんでください」とも神さまに祈っています。
 きっと彼は、すべての民から愛されたわけではないでしょう。
 固すぎる人、怖い人、人の気持ちがわからない人、というような目で見られてかもしれません。

 しかし、彼は神とそのことばに仕えたのです。それは、民を愛するゆえです。二度と、罪からくる壊滅的な事態に、愛する民を向かわせたくなかったのです。

 このようにして、ネヘミヤは時として孤独なリーダーだったかもしれません。
 しかし、彼は祈り続けながら、与えられたみことばに従って、右にも左にもそれず、神さまに仕えたのです。

 神さま。私もまた、あなたのことばに忠実でありたいと願います。
 あなたのために。みんなのために。

「(愛は)不正を喜ばずに真理を喜びます。」
 コリント人への手紙第1 13:6

今日の聖書/「礼拝の民があそこに」ネヘミヤ記12章43節

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 エルサレムの城壁を、神さまにおささげする礼拝の日、大きな聖歌隊が編成されました。
 ダビデ王がかつて作り出した数々の楽器が演奏され、それに合わせて、女も子どもも、みなが声を合わせて賛美をしたのです。

 そのとき、エルサレムから賛美の歌声があふれて、その喜びの声ははるか遠くまで聞こえました。

 私は、ここに教会の理想があると思っています。
 (騒音を出すという意味ではなく)

 あそこに喜んでいる人たちがいる。神を礼拝する者たちの空気が、周りに伝わる。
 そんなあふれ流れる喜びが、教会には満ちていて欲しいのです。

 それは、何かきよく正しい聖人たちの集まりで、一般人が近づけないような空気ではありません。
 イエス・キリストの十字架によって罪赦された、愛を知った罪人たちの喜びです。

「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。
 もし私たちが互いに愛し合うなら、
 神は私たちのうちにおられ、
 神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
   第1ヨハネ4:12

今日の聖書/「聖なる都、入居者募集!」ネヘミヤ記11章2節

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 城壁が完成したエルサレムに、では誰が住むか、ということになったようです。
 イスラエルの民は、すでにそれぞれの土地と住まいに定住していました。
 その中で、くじ引きをして10%の人が聖なる都、エルサレムに住むようにしたようです。

 都、と言ってもかつての輝きは無かったかもしれません。
 城壁がある、と言っても外敵を意識しなくてはならない暮らしだったかもしれません。
 しかし、なんといってもエルサレムの特徴は、いつも神さまを意識する場所である、ということでしょう。

 くじ引きではなくて、「エルサレムに住みたい」と申し出る民もいて、その人達をみなは祝福した、とあります。
 つねに神さまを思える生活。
 私もそんな生活に憧れます。
 天の御国こそ、ほんとうの聖なる都である、とヨハネの黙示録は伝えてくれます。神さまの愛を永遠に喜べる場所が、用意されているのです。
 この幸いな生活は、実は死んだ後だけではなくて、今日から始めることができます。
 体は天国に行っていなくても、心においては、先取りして平安の中を生きることができます。
 それが、信仰のもたらす恵みです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
 わたしのところに来なさい。
 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
   マタイ11:28

今日の聖書/「結婚よりも大切なもの」ネヘミヤ記10章30節

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 心からの悔い改めをしたイスラエルの民は、ネヘミヤと共に聖書に従う生活を志します。
 その時の生活基準の一番目に挙げられるのが、異教の民とは結婚しない、というものでした。
 彼らは、旧約聖書の歴史を振り返り、いつも偶像礼拝が結婚によって持ち込まれてきたことを体験として知っていました。

 男女のつながりは、心と体をも共有するものです。
 信仰も、それによって大きく影響されます。

 それゆえ、彼らは結婚によって信仰がそこなわれることのないように、神を信じない人との結婚をしないことをはっきりと決断したのです。
 聖書は結婚をとても重んじている書物です。
 しかし、同時に結婚よりも大切なものがあることが、ここから分かります。
 私と神さまとのつながりは、私と伴侶とのつながりよりも大切なのです。

 イエス・キリストの十字架によってのみ、人は救われるのであって、恋人によっても伴侶によっても救われることはありません。
 キリストとの関係があるからこそ、人は誰かを愛せるのであって、この方との絆を失うことは、一生の損失です。

 どれほど好ましい男性が、または女性がいようとも、神さまこそ真の愛の喜びを与えてくださるお方です。
 私もいつも、はっきりと神さまと自分の関わりを見つめる歩みをし続けたいと願います。

 愛したい人はたくさんいます。でも、まず愛するのは神さまです。
 なぜなら・・

「愛は神から出ているのです。」第1ヨハネ4:7

今日の聖書/「ほんとうの悔い改め」ネヘミヤ記9章33節

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 ネヘミヤとともに、イスラエルの民は、きよめの集会を開催しました。
 聖書のことばを心を開いて受け止め、自分たちの罪を告白しているのです。
 彼らは、大国に滅ぼされましたが、それでも帰還を許されてエルサレムの城壁を再建しました。でも、未だにペルシヤの奴隷であることに変わりはありあません。
 このような窮状に陥ったのは、ひとえに自分たちの罪のせいであることを彼らは認めています。

 私たちは自分たちの身勝手のゆえに状況を悪化させながら、それをだれか他の人のせいにするものです。
 正面から自分の罪を見据える人は、多くありません。
 しかし、神さまが真の悔い改めに導くとき、人はへりくだって、神さまの前に自分の罪を心から悲しむことができるのです。
 神さまは、そんな悔い改めた心をさげすまれません。この悲しみは、本当の赦しにいたるための悲しみです。

 イエス・キリストの十字架は、このようにして悔い改めるすべての人に、まったき赦しを与えるためにあるのですから。

 主よ、私が自分の罪を正しく悔いることができますように。
 あなたの御顔の光のなかで、正しく悲しみ、そして赦しの喜びを味わう者とさせてください。

「そこで、イエスは答えて言われた。
『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 わたしは正しい人を招くためではなく、
 罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」
   ルカ5:31-32

今日の聖書/「悲しませるためではなく、救うために」ネヘミヤ記8章11節

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 廃墟となった神殿を建て直し、捕囚から帰ってきた民は、もういちど神さまとともに歩む国を作ろうとしていました。
 そんな中で、聖書が開かれ、律法に関する説教がなされました。
 そのときに彼らは、自分たちの犯してきた罪がはっきりと分かり、悲しみ、涙したのです。
 
 しかし、ネヘミヤやレビ人たちは、悲しむべきではない、この聖なる日を喜ぼう、と語るのです。
 聖書は人を悲しませるために書かれたのではなくて、悔い改めの先にある喜びに導く書物です。
 神さまに近づく人には罪が示されますが、同時に赦しも与えられるのです。

 この恵みは、新約聖書によってますます明確に宣言されることになります。

 イエス・キリストの十字架の救いは、圧倒的な恵みの力をもって、今の時代にも全ての人に差し出されているのです。

「神が御子を遣わされたのは、
 世をさばくためではなく、
 御子によって世が救われるためである。」
   ヨハネ3章17節