カテゴリー別アーカイブ: エズラ記

今日の聖書/「罪にふるえる」エズラ記10章9節

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 結婚は、人格に大きな影響を与えます。
 イスラエルの民のリーダーたちが、異教の女を愛して妻としていたことは、再建を目指すイスラエルにとって、絶望的な事態でした。
 しかし、民は神の民として歩むために、どんな犠牲をもはらうことを決意しました。
 異国の妻と別れようとしたのです。

 大雨の中、全集団はエルサレムの宮の前に集まり、ふるえていた、と記されています。
 大雨に体を打たれて寒かっただけではありません。
 それは、罪の結果を恐れるふるえであり、また、神の前に大きな決断をしようとする武者震いでもあったでしょう。

 私たちも、このような罪の悔い改めの経験をしなくてはなりません。
 神の前で、自分の罪人の姿を見出すとき、私たちはふるえます。
 しかし、ふるえながらも罪を告白し、神さまによりたのむ時、赦しと導きはきっと与えられます。
 こう記されているとおりです。
「たとい私がささげても、
 まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
 全焼のいけにえを、望まれません。
 神へのいけにえは、砕かれた霊。
 砕かれた、悔いた心。
 神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
   詩篇51:6-7

今日の聖書/「私たちは罪過の中であなたの御前におります」エズラ記9章15節

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 神さまの前で、今度はきよい文化を築こう、と思っていた指導者エズラは、大きな苦痛を味わっています。
 神さまに仕えるべき祭司やレビ人たちが、神さまの律法を犯して、異教の女達をめとっていることが判明したのです。

 この罪のせいでかつてイスラエルは滅びました。
 しかし、回復期にある今、再び同じことをリーダーたちがしていたことが判明したのです。
 エズラの悲しみは大変なものでした。
 人間の罪の深さ、神へのあなどりの現実を前にして、呆然としています。

 しかし、それでも彼は神さまの前で祈ります。
 罪の現実をさらけ出して、もはやどうすることもできない事態のまま、助けを祈るのです。
 ただ、神さまの愛にのみすがるのです。

 この態度が、聖書の教える正解です。
 私たちは罪人です。そして、自分の罪を自分ではどうすることもできません。
 私たちは不誠実です。
 しかし、神は愛なる絶対者です。

 イエス・キリストの十字架に、すべての希望があります。
 赦しを信じて御前で悔い改める人は幸いです。
 その人は、神のつきないあわれみを知るでしょう。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、
 神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、
 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
   第1ヨハネ1:9

今日の聖書/「神の御手の大きさ」エズラ記8章22節

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 バビロンからエルサレムへと帰還するエズラたちの旅団は、神殿の器具のための多くの金銀も運びました。
 また、彼らに敵対する者や、待ち伏せする人たちがあることも知っていました。

 しかし、彼らはアルタシャスタ王の護衛部隊の要請をしなかったのです。
 神ご自身がこの旅路を守ってくださると信じていたからです。
 それどころか、軍隊を要請するのを「恥じた」とまで記されています。
 
 主を尋ね求めるすべての者は、神さまの大きな御手の助けに期待していいのですね。
 人生は旅です。何がおこるか分かりませんし、様々な不安も伴います。
 しかし、目的地である天の御国まで、イエス・キリストは必ずご一緒にいて、すべてを完成してくださいます。

 無力な私ですが、すべてをなされる主にいっさいを委ねて、導かれる道を歩みます。

「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
  第2コリント12:10

今日の聖書/「主が道を開かれるとき」エズラ記7章27節

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 エズラという聖書学者は、当時バビロンにいましたが、エルサレムに戻って、もう一度イスラエル人たちが聖書にかなった生活をするために働く、ということに心を定めていました。

 そんな中で、本当に不思議な事が起こります。
 イスラエル人への帰還命令をアルタシャスタ王は発布し、聖書の神さまのみこころにかなうことは何でもするように、と手厚い保護を与えることを宣言したのです。
 エズラの前に、次々に扉が開かれていったのです。

 神さまのみこころを行おうとする人の前には、このように道が開かれていきます。
 一歩踏み出す人だけが、その奇跡を経験するのです。

 神さまは私たち一人一人に、それぞれのなすべき働きを与えてくださいます。
 みことばを握りしめて一歩踏み出す人は幸いです。

「それゆえ、あなたがたは行って、
 あらゆる国の人々を弟子としなさい。
 そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、
 彼らを教えなさい。
 見よ。わたしは、世の終わりまで、
 いつも、あなたがたとともにいます。」
   マタイ28:19-20

今日の聖書/「信仰と現実」エズラ記6章22節

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 帰還したイスラエルの民により、神殿は再建されました。
 22節にまとめられているように、困難な中にあって、神さまは奇跡のように道を開いてくださいました。
 近隣の民の反対行動に対しても、神さまは具体的に働きかけて、道を開かれたのです。

 神さまが現実に介入されるかたであることを、民はこのときはっきりと知りました。
 また、私たちはイエス・キリストが歴史に介入してこられて、全人類の身代わりとなって十字架に架かられた事実も知っています。
 さらに、日々の生活の中で、具体的に働いてくださる神さまのみわざも経験し続けています。
 
 信仰と現実は別物ではありません。
 私たちは神さまが与えられる現実の中を生きるのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、
 感謝をもってささげる祈りと願いによって、
 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
 あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
  ピリピ4:6-7

今日の聖書/「私は何者なのか」エズラ記5章11節

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 近隣からの圧力を受ける中でも、ペルシャから帰還したイスラエルの民は神殿を再建しました。
 その時に、地域の総督がやってきて、何をしているのか、と問いただします。

 この時、長老たちはまずこう答えるのです。
 「私たちは天と地の神のしもべであり・・」
 彼らは、自分たちが何者かであるのを説明するのに、まず最初に自分たちの信仰を表明するのです。
 それこそが、彼らの自己認識の土台だったのです。

 自分たちが神の民であり、キリストによって罪赦されたものであることを誇りとし、喜びとして、第一の自己表現としたい、と願います。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」
  ピリピ1:21