カテゴリー別アーカイブ: 黙示録

今日の聖書/「救いは、タダです。」黙示録22章17節

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 天の御国の喜びと安らぎの記述で、黙示録は閉じられます。

 聖書通読がまた一回終了です。明日からは創世記1章に戻ります。

 「いのちの水がほしい者は」と今日の箇所は呼びかけます。
 「それをただで受けなさい」と。

 救いはただなのです。
 イエス・キリストの十字架の赦しは、無料ですべての罪人に差し出されています。
 誰でも人は永遠のいのちをただで頂くことができます。

 礼拝に行くと献金の時間があります。でもそれはしたい人がしているのです。救いの対価ではありません。
 救いはただです。
 というよりは、金銭で買うことのできないものです。罪の赦しと永遠のいのちの対価を、誰も払うことはできません。ただ、感謝をもって受け止めるのみです。

 それをただで受けなさい。
 と、すべての人に招きを宣言して、旧新約聖書は締めくくられます。

「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
 自分の身代金を神に払うことはできない。
 −−たましいの贖いしろは、高価であり、
 永久にあきらめなくてはならない−−」
  詩篇49:7-8

今日の聖書/「地上の生の意味」黙示録21章4節

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 天の御国においては、地上でのすべての悲しみが慰められ、叫びも苦しみもない、と記されています。
 キリストを信じる人は、天の御国にあって、キリストに似たものとして完成されることも聖書には約束されています。
 もはや、限界も、痛みも、弱さも、不安も天にはありません。

 だとすると、現時点での地上での生涯にはどのような意味があるのでしょうか?
 私は天のつきぬける喜びの日々の中で、地上での生をどのように振り返るのでしょうか。

 天での完成と比較するならば、思い出す価値もない、不完全で弱々しい歩みであるようにも思います。
 しかし、この限界だらけの、弱さと貧しさの中で、私はイエス・キリストに出会いました。
 この地上での生は、イエス・キリストの愛との出会いの生であり、不完全な者を神が取り扱い続けてくださった、一度きりの、私だけの救いのストーリーなのです。
 そう思うと、この二度と繰り返されない一日一日がとても愛おしいもののように思えます。

 私は、この不完全で、不安定で、喜びと悲しみの入り交じる心の旅を、いつか懐かしく思い出すことでしょう。そして、その生涯を力強く支え続けてくださった方に、永遠の賛美をささげるのでしょう。

「けれども、私たちの国籍は天にあります。
 そこから主イエス・キリストが
 救い主としておいでになるのを、
 私たちは待ち望んでいます。」
  ピリピ3:20

今日の聖書/「いのちの書」黙示録20章12節

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 神さまはすべての人をさばかれます。
 膨大な数の人類ではありますが、その一人一人に関して膨大な資料が用意されている、とこの箇所には記されています。
 私たち一人一人について、詳細な記録が数々の書物として開かれるというのです。

 私たちの犯してきた罪は神さまの前に数えられている・・、このことは罪人である私たちにとって絶望的な現実です。
 しかし、ここで別のもう一つの書物が開かれる、と記されています。
 「いのちの書」です。そこには、イエス・キリストを信じ、その罪を赦された人の名が記されているのです。
 いのちの書に名が記されている人は、さばきの座において無罪が宣言され、神の子どもとしての特権を与えられます。これが、聖書が私たちにどうしても伝えたい、救いの道です。

 私たちはみな死にます。
 罪の中を歩み、滅びに向かって生きるのか、キリストの十字架の愛の中を生き、永遠の喜びに向かっていくのか、その生き方の違いはあまりにも大きいのです。

 いのちを得よ、愛を受け入れよ、と旧新約聖書全体はすべての人に語りかけているのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、
 永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、
 死からいのちに移っているのです。」
   ヨハネ5:24

今日の聖書/「歓喜と絶叫」黙示録19章17-18節

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 最後のさばきの到来は、「子羊の婚礼」にたとえられます。
 イエス・キリストが再び来られ、神の民は花嫁のように、恵みの完成の時を喜びます。
 しかし、それは同時に神に背いた人々の激しいさばきの時でもあるのです。

 歓喜と絶叫が同じ章に連続して記されています。
 突き抜けた喜びと、滅びの悲しみ。黙示録にはこの二つの要素が同時に表現されます。
 
 クリスチャンであることは喜びです。
 しかし同時に、クリスチャンであることは、悲しみを抱えることでもあります。
 神さまに従おうとしない友への悲しみです。
 自分の内にある輝かしい喜びがあればあるほど、悲しみの痛みも鋭いのです。

 ですから愛に燃えて祈りつつ、友の救われることを教会は願うのです。

「私には大きな悲しみがあり、
 私の心には絶えず痛みがあります。
 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、
 この私がキリストから引き離されて、
 のろわれた者となることさえ願いたいのです。」
   ローマ人への手紙9:2-3

今日の聖書/「商人たちの魔術」黙示録18章23節

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 経済都市「大バビロン」は、富と繁栄を誇りましたが、神さまの正しいさばきにより一瞬の内に滅びます。
 すべては虚構であり、虚栄だったのです。
 人々は繁栄のもたらす快楽に酔いしれましたが、それは「商人たちの魔術」にだまされていた状態だったのです。

 誘惑と刺激を絶え間なくもたらしつつ、人を快楽に依存させてお金を払わせる。そんなビジネスが社会には多くあります。
 それは魔術であり、だましごとである、と聖書はあばきます。
 何事にも裏側があり、そこでは金銭が共通言語です。
 けれどいつか、神さまの光がすべてを明るみに出すのです。

 あなたの心をとりこにしているものはなんですか?
 あなたの余暇は何に費やされていますか?
 人は神に似せて造られました。
 祈る時間、もの思う時間、学ぶ時間、何かを作り出す時間、誰かのために費やす時間を、だましごとのために奪われてはなりません。

「こうしてあなたがたは、
 地上の残された時を、
 もはや人間の欲望のためではなく、
 神のみこころのために過ごすようになるのです。」
   第1ペテロ4章2節

今日の聖書/「不品行のぶどう酒に酔う」黙示録17章2節

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 大淫婦と呼ばれる世界的経済都市のさばきについての預言です。
 これがすでに存在している都市のことなのか、これから現れる都市のことなのかは定かではありません。
 しかし、高度な経済システムの中で、人々が不品行のぶどう酒に酔う時代である、という点では現代の諸相と重なります。
 人々は金銭や余暇を、何に消費し、また何に依存し、そしてどのように心を汚していることでしょう。

 むさぼりと肉の欲に支配されているとき、人は快感を覚え、自制心を失い、そして後ろめたさを感じ続けます。
 しかし、さばきは確実に近づいているのです。

 私たちはみな罪人です。
 しかし、イエス・キリストには常に赦しと自由があります。
 神の光の中に誰もが招かれています。
 私もまた、いつもそこで喜ぶ者であらせてください。

「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。
 主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」
  詩篇89:15