カテゴリー別アーカイブ: ローマ人への手紙

今日の聖書/「喜びの朝を」詩篇90篇14節

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 どんなに打ちひしがれた夜があったとしても、神さまは喜びの朝を用意してくださいます。
 今日は受難日、イエス・キリストが十字架で死なれた日です。
 イエス様が死んでくださったのは、私たちの罪の身代わりです。
 神さまに背き続けてしまう自己中心な私たち。そこから生じる不安と孤独。
 その苦しみを解決するために、ご自分が身代わりの刑罰を受けてくださいました。

 十字架の悲しみの先には、イースター〈復活〉の喜びがあります。
 私たちに喜びの朝を与えるために、イエス・キリストは死んでくださいました。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、
 キリストとともに葬られたのです。
 それは、キリストが御父の栄光によって
 死者の中からよみがえられたように、
 私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
    ローマ6:4

今日の聖書/「力ある平安」詩篇29篇11節

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 神さまは力強い方です。
 神さまがお命じになるとき、大いなるみわざがそこには起こります。

 「主の声は、力強く、主の声は、威厳がある」(4節)

 しかし、主はその声をもって私たちに力ある平安を語られるのです。
 弱くとぼしい私達ですが、ただ、神のみことばのゆえに、立って歩き、また安らぐことができるのです。

 イエス・キリストによって、神のことばははっきりと現されました。
 つまり、神は生きておられるということ。そして、私達をまったき愛で愛されていることが、明示されたのです。
 そして、この方を信じる人の内には、キリストご自身が聖霊によって住んでくださいます。
 ここに力ある平安があるのです。

「この希望は失望に終わることがありません。
 なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
 神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
   ローマ5:5

今日の聖書/「サタンを踏み砕く子どもたち」ローマ人への手紙16章20節

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 どんな誘惑も、狡猾な罠も、神の子どもたちは切り抜けることができます。
 巧言に隠された分裂も見逃さず、邪まな策略もはねのけて、平和をもたらすことができます。
 なぜなら彼らは、サタンをも踏み砕くために召されたのですから。

 大切な事は、純真に神の愛とことばを受け止めることです。
 そこにあるきよさと正しさは、悪魔をもっともたじろがせるものです。

 イエス・キリストの十字架の愛は、私たちにあのいにしえの約束の成就をもたらしてくれたのです。

「神である主は蛇に仰せられた。
『おまえが、こんな事をしたので、
 おまえは、あらゆる家畜、
 あらゆる野の獣よりものろわれる。
 おまえは、一生、腹ばいで歩き、
 ちりを食べなければならない。
 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。』」
   創世記3:14-15

今日の聖書/「善意と知恵にあふれた者にさせて頂ける・・」ローマ人への手紙15章14節

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 愛を説く立場でありながら、愛の無さを覚えることの多い私です。
 しかし、聖書はこんな私も愛の人として成熟できる、と約束してくれています。

 聖書が約束しているということは、必ず実現する、ということです。
 イエス・キリストの十字架に表れているように、聖書の約束は、それがいかに途方も無いように思えても完了するのですから。

 私が、そして私たちが善意と知恵にあふれ、互いに訓戒しあう愛の交わりを持つことは、キリストご自身が切に願われていることです。

 主よ、どうぞお言葉通りこの身になりますように。
 愛の中の充足へと、献げる喜びへとお導きください。

「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、
 生きている人々が、もはや自分のためにではなく、
 自分のために死んでよみがえった方のために
 生きるためなのです。」第2コリント5:15

今日の聖書/「愛は、さばくなという以上に、さばく罪を犯させるなと言う。」ローマ14章13節

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 人は弱い存在です。
 ですからついつい人をさばいてしまいます。
 神さまがとてもそれを厭われるのに。

 イエス・キリストは、ひとりひとりのために十字架に架かってくださいました。
 私もみな、もまた赦された罪人に過ぎません。
 なのに人をさばくということは、実は陳腐なことです・・。
 さばいてはならない、というのは当たり前の命令です。

 真の愛は、「さばくな」という以上に「さばかせるな」と命じます。
 誰かを私につまずかせ、さばく罪を犯させないように、ということです。
 クリスチャンは何をしてもいい自由があります。しかし、だからと言って権利を主張して個性を回りに押し付ければよいというものではありません。
 愛は礼節を重んじますし、配慮を忘れません。
 「いや、それ以上に」ということば、そして「決心しなさい」という言い回しが心に残ります。

 私は・・・。
 主よ、私もまた与えられた自由の中で、誰かに私をさばかせるような言動を行ってはいないでしょうか。
 どうぞ、お取り扱い下さい。
 あなたの子どもらしく、変え続けてください。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。
 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
 私をとこしえの道に導いてください。」
  詩篇139篇23-24節

今日の聖書/「関係を完全にするもの ー愛ー」ローマ人への手紙13章10節

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 結局のところ、愛が動機にあるかどうか、なのです。
 愛が動機になければ、どんな行為を他者に示したとしても、そこには自己中心が入り込むのです。
 愛が動機にあれば、その言動は実を結びます。

 キリストは愛のみを根拠として生きられました。
 だからこそ多くの人の救いとなられました。

 私も、ただこの愛によって救われたものです。
 私のことばと行いもまた、愛を源としたものでありますように。

「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、
 また私のからだを焼かれるために渡しても、
 愛がなければ、何の役にも立ちません。」
   第1コリント13章3節