カテゴリー別アーカイブ: ルカの福音書

今日の聖書/「すべての人を照らすそのまことの光」ヨハネの福音書1章9節

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 キリストは光である、と聖書は教えます。

 それは、私にとって事実です。
 キリストを知る以前は、私は見えているようで見えていませんでした。
 自己中心な物の見方しか出来ず、正しく物事や人を見る力を持ちませんでした。
 しかし、キリストを心にお迎えした時、世界の見え方が変わりました。
 また、自分自身の見え方も変わりました。
 神さまとの関わりの中で、私も人もすべての存在がはっきりとするのです。
 また、キリストの光は愛の光なので、私は、愛の中にある自分を見出しました。

 キリストは光である、と聖書は教えます。
 そして、私を照らすだけではなくて、「すべての人を照らす」と約束されています。
 この方の光を喜びながら、世の一隅を照らすのが、すべて救われた人の使命です。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、
 私の道の光です。」詩篇119:105

今日の聖書/「暗い顔つきのその理由」ルカの福音書24章17節

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 我が家にはテレビはありませんので、オリンピック中継は、NHKと契約して一日遅れでパソコンで見ています。
 浅田真央ちゃんが、ショートプログラムで非常にかわいそうなことになった、というのは聞いていましたが、翌日フリーでは会心の滑りを見せた、というのも知っていました。
 ですから、昨夜ショートプログラムで沈鬱な顔つきで滑る真央ちゃんを見ていても、その後の呆然としたインタビューを見ていても、「大丈夫!明日あなたは見事な滑りをするよ!」と言いたい気持ちでした。

 今日の箇所で、イエス様の弟子たちは、復活のイエス様が近づいているのに暗い顔つきをしています。
 愛するイエス様が死んでしまった・・と思いこんでいるからです。
 イエス・キリストが、死んだままでいるはずはないのに。

 キリストがご一緒におられるのに、それに気づかないでいる時、私たちは暗い顔つきになります。
 しかし、目が開かれて、いつもイエス様がご一緒であることを知る時に、私たちの心にも表情にも明るさが宿ります。
 私を愛し、私の今日を導かれる主が、共におられるのですから。

「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」 詩篇43:5

今日の聖書/「救いは恩寵の中に」ルカの福音書23章34節

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 妬みと策謀の中、神の子であるイエス様は十字架に架けられました。
 聖なるお方が、罪人として本当の罪人達に罰せられる・・、絶対にあってはならないことが現実に起こりました。

 しかし、それが神の救いの計画だったのです。
 十字架の上で、イエス様は殺害計画を実行しているひとりひとりのために、そして聖書を読む全ての人のために祈っています。
 彼らの罪をお赦しください、と。

 ここから分かることは、救いとは完全な恩寵であるということです。
 私もまた、何をしているか分からない罪人でした。しかし、キリストの愛が届いたときに、救いが分かりました。
 私は何も努力していません。ただ、キリストが一人ですべてを完了して下さいました。

 今日もまた、その恵みの中を生かされています。

「主の祝福そのものが人を富ませ、
 人の苦労は何もそれに加えない。」箴言10:22

今日の聖書/「あなたの信仰がなくならないように」ルカの福音書22章32節

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 イエス・キリストは、ペテロが裏切ることを知っていました。
 しかし、彼を見捨てることはなさいませんでした。

 ペテロは自分を過信していました。
 自分はキリストを愛しており、また誠実である、と。
 しかし、我が身に危険が及んだ時、彼は保身のためにキリストを見捨てて逃げました。
 こうしてペテロは自分の自己中心と不誠実さに打ちのめされることになります。

 愛なるキリストは、前もってペテロに「わかってるよ」と伝えています。
 そして、「それでもあなたを私は立ち直らせるからね」と言われているのです。

 このような深い愛によって、私も養われてきました。
 私もまた、このように誰かのために祈る者とさせてください。

「まことに、御怒りはつかの間、
 いのちは恩寵のうちにある。
 夕暮れには涙が宿っても、
 朝明けには喜びの叫びがある。」詩篇30:5

今日の聖書/「イエス・キリストの夜の顔」ルカの福音書21章37節

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 イエス様はエルサレムにおられた時、エルサレムの民衆は、いつもより早起きしました。
 イエス様の言葉を少しでもたくさん聴くために、宮に急いだのです。
 陽が登っている間、イエス様はみことばを語りました。

 そして陽が沈むと、集まりは解散しました。
 人々は、明日も早起きしよう、と決めて家路についたのです。

 そんな時、イエス様はどこに行ったのでしょう。
 人々が去った後、イエス様は何をして自分の時間を過ごしたのでしょう。

 イエス様は「いつも外に出てオリーブという山で過ごされた」と記されています。福音書の他の箇所も併せて読むと、それは祈りのためであったことが分かります。
 イエス様は、父である神との祈りの中に、自分の居場所を持っていたのです。
 
 そして、また恵みのことばに満たされて、朝日とともに爽やかに働かれたのでした。

 天のお父様、あなたとの祈りの時と場に招かれていることを感謝します。

「私は助言を下さった主をほめたたえる。
 まことに、夜になると、私の心が私に教える。
 私はいつも、私の前に主を置いた。
 主が私の右におられるので、
 私はゆるぐことがない。」詩篇16篇7-8節

今日の聖書/「神は死んだ者の神ではありません」ルカの福音書20章38節

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 地球上には今70億人というおびただしい人が生きています。
 神がその一人ひとりに目を留めておられ、愛されているというのは、驚異的な事と言わざるを得ません。
 しかし、それ以上に驚くべきことがあります。
 すでに死んだ者達も、今も神の前に生きており、覚えられている、というのです。

 地球上で今まで存在した人口は、数百億〜1000億人強とされています。
 神は終わりの日に、そのすべてにおいて正しいさばきを行われるのです。

 人間の魂には、私たちが思っている以上の尊厳があるのです。
 神の許しがなければ、一羽の雀さえも地に落ちない、と書かれてあるとおりです。

 私もまた、神に数えられ、死んだ後も覚えられる一人です。
 ひとりひとりが、神の目にはかけがえのないいのちなのです。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、
 その約束のことを遅らせておられるのではありません。
 かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、
 ひとりでも滅びることを望まず、
 すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
   第2ペテロ3章9節