カテゴリー別アーカイブ: ヨハネの福音書

今日の聖書/「聖書は分厚すぎる?」ヨハネの福音書21章25節

20140317-070600.jpg
 一日一章ずつ読んでいる私の朝の聖書通読ですが、今日で大好きなヨハネの福音書が終わりです。
 マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書は、やはりイエス・キリストのことばと行いが記されているわけですから特別な書物ですね。

 さて、今朝はヨハネの福音書の末尾の一言に目が留まりました。
 ヨハネはイエス・キリストの言動についていくらでも書けることはあったようです。
 それらを凝縮し選び抜いて記したのが福音書ということになります。
 その一節一節に意味と重さがあるのですね。

 初めて聖書を手にする方で「こんな分厚い本はちょっと・・」という反応をされる方があります。
 確かに、私たちが日常で手にする本に比べると、ずいぶん字が多くて厚みがある印象があるかもしれません。
 けれどこの一冊の中に、神さまについての知識や救いの計画の全体、そして人間とは何か、どう生きるべきかが詰まっているとしたらどうでしょう。
 その内容の大きさを考慮すれば、驚くほどコンパクトな一冊と言えるのではないか、と思うのです。
 一日一章読むと3年あまりで一回通読できます。私はそれを繰り返しています。
 読むほどに気づきがある、深い書物です。

「聖書はあなたに知恵を与えて
 キリスト・イエスに対する信仰による
 救いを受けさせることができるのです。
 聖書はすべて、神の霊感によるもので、
 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
   第二テモテ3:15-16

今日の聖書/「この復活された方が私の救い主です」ヨハネの福音書20章20節

20140316-081740.jpg
 十字架の三日後、絶望と恐れの中にあった弟子たちの真ん中に復活のイエス様は立たれました。
 弟子たちの驚きと喜びはいかばかりであったことでしょう。

 イエス様は十字架に釘付けられた手の傷と、最期に脇腹を刺された跡も見せられました。
 それは二つのことを意味しています。
 一つはまさにイエス様は死んだけれど、復活されたという事実。
 そして、もう一つは私たちの罪の身代わりとして死が完了したということです。

 イエス・キリストの復活は、私たちの悲しみと苦しみのすべてを神が背負い、すべてに勝利されたしるしです。
 この方がいてくださるなら、そこには輝きと平安しかありません。

 この復活された方が私の救い主です。

「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、
 私のくちびるは、あなたを賛美します。」詩篇63:2

今日の聖書/「この十字架を負われる方が、私の神です」ヨハネの福音書19章17節

20140315-093524.jpg
 イエス・キリストは、自分が釘付けられる十字架を自分で担いでゴルゴタの丘に向かわれました。
 それはイエス様の人生を象徴する光景です。
 神である方が人類の罪と悲しみを背負うために、人となって来てくださった。それがイエス様のお働きです。
 この方を信じるなら、誰でも神の救いに預かり、神の子とされます。

 この十字架を負われる方が、私の神です。
 この方とご一緒する歩みには、平安と愛があります。

 私の願いは、わたしもまた十字架を背負ってついていくことです。
 永遠のいのちは約束されています。何を失うことももう怖くありません。
 誰かのために何かを担って生きる生き方をもって、キリストに従えるなら、それにまさる幸いな生涯はありません。

「イエスは、みなの者に言われた。
『だれでもわたしについて来たいと思うなら、
 自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
 そしてわたしについて来なさい。』」
   ルカ9:23

今日の聖書/「みずからを差し出すキリスト」ヨハネの福音書18章4節

20140314-075934.jpg
 イエス・キリストを捕らえるために、松明と武器を持った一団が夜の園に入ってきたとき、イエス・キリストは「だれを捜すのか」と自ら出て行かれました。
 これを読むときに、創世記のエデンの園の出来事を思い出します。

「そよ風の吹くころ、
 彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。
 それで人とその妻は、
 神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
 神である主は、人に呼びかけ、
 彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」
   創世記3:8-9

 罪を犯した人間は神の御顔を避けて隠れますが、神は「あなたはどこにいるのか」と探されます。
 どこにいるかご存知だったはずです。しかしあえて問われるのは、正直な悔い改めの告白を促すためであったでしょう。
 しかしアダムとエバは、罪人特有の責任転嫁をはかり、見苦しく言い逃れようとします。

 イエス・キリストは、そんな罪ある私達の身代わりとなるために来られました。
 「あなたはどこにいるのか」という問いかけに答えることにできない人類のために、「わたしはここにいる」と自らを十字架に差し出されるのです。
 
 主よ。
 私はここにいます。
 愛によって救われた赦された罪人として、あなたの前に今日もいのちの恵みを頂いています。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、
 また恵みをいただいて、
 おりにかなった助けを受けるために、
 大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
   ヘブル4:16

今日の聖書/「わたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」ヨハネ17章24節

20140313-082712.jpg
 イエス・キリストの十字架直前の祈りです。
 イエス様の心にあったのは、弟子たちの平安と幸いでした。
 イエス様の愛の中にとどまってさえ入れば、彼らは安心です。
 彼らがそこから迷い出てしまうことがないように、と祈られたのです。

 つまり、イエス様にとって弟子たちの存在は、地上での数年間を共に過ごすだけの間柄ではなかった、ということです。
 これからもいつまでも愛し続ける決意がイエス様にはありました。

 卒業のシーズン。さまざまな別れがあります。
 しかし、イエス様は信じるすべてのひとにサヨウナラを決して言うことがありません。
 私を永遠に救い続けるお方です。

「父がわたしを愛されたように、
 わたしもあなたがたを愛しました。
 わたしの愛の中にとどまりなさい。」
   ヨハネ15章9節

今日の聖書/「in the name of Jesus」ヨハネの福音書16章24節

20140312-080538.jpg
 今週の礼拝で、「神さまがあなたにしてくださったことは?」というような質問を投げかけると、ある方が「祈りを与えてくださった」と答えられました。
 イエス・キリストは、ご自分が十字架にかかって身代わりの死を遂げることで、罪ある私たちが直接神と語り合える関わりを与えてくださいました。

 イエス・キリストの名によって祈るなら、その祈りは神に届くのです。
 「求めなさい」とイエス様は力強く勧めます。「そうすれば受けるのです」と。

 そして「それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」とも言われます。

 神を信じる生活は、喜びが満ちる生活です。
 そしてそれは、祈りの生活でもあります。
 イエス・キリストの名によって大胆に祈り、その結果を見ることで、人は喜びを蓄積しながら生きるのです。
 
 主よ。
 今日もあなたの御前に立ち、イエス・キリストの名によって、良きことを祈らせてください。
 祈りを聞かれる方よ。

「祈りを聞かれる方よ。
 みもとにすべての肉なる者が参ります。」
  詩篇65:2