カテゴリー別アーカイブ: ヨハネの手紙第1

今日の聖書/「火の中からつかみ出す」ユダの手紙 23節

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 もうこの人は救いようがない・・と思うような人をも、火の中からつかみ出すようにして救いなさい、と聖書は教えています。
 依存症だったり、闇の世界に生きていたり、乱れた生活習慣を持っていたりする人を連想します。
 そういう人たちにかかわることはエネルギーを必要とします。
 しかも、「まぁ、こういうことには目をつぶろう」と何らかの妥協をすることは勧められてません。
 罪の現実に恐れおののきながら、またその罪の実態を忌み嫌いながら、しかしかかわっていくのです。それは何ともストレスフルな救出作業です。
 距離を置くのでもなく、妥協するのもでもなく、罪を罪として見きわめながら近づいていくのです。なんと不快で、困難で、苦痛を伴うかかわりでしょう。

 しかし、イエス・キリストが私のためにしてくださったことは、まさにそのような救いのわざです。
 誰も来てくれない私の現実に、キリストはかかわってくださいました。罪を罪として示しながら、同時に私という存在を愛してくださいました。
 
 火の中からつかみ出して救われたのは、まさに私です。その代償としてキリストは十字架に架かられました。
 
 私には、火の中に飛び込む力も愛もありません。
 しかしもしも神さまが行きなさいと言われるのなら、力も愛も備えてくださるでしょう。
 御心のままに、お用いください。

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。
 主はその人を立たせてくださいます。
 また、もしその人が罪を犯していたなら、
 その罪は赦されます。」
   ヤコブ5:15

今日の聖書/「子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど」ヨハネの手紙第3 4節

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 大人が子どもに求める「いい子」とは、「問題を起こさない子」であり、「大人にストレスや迷惑をかけない子」であったりします。
 それは愛からくる要求とは言えません。大人の自己中心に子どもが当てはめられるケースです。

 神さまが私たちに求める「いい子」は、「真理のうちを歩む」子です。
 それはつまり、神さまの愛の中を歩む子です。罪を犯しても、赦しを信じて悔い改め、弱さや悲しさも隠さず祈り、そうして互いに愛し合いなさいという命令の中を歩むことです。
 その様子を見ることを、神さまは何よりも喜ばれるのです。

 それはその状態が神さまにとって都合がいいからではありません。
 その状態が人間にとって、もっとも幸いな生き方だからです。

 神さまがその子らに望まれることは、ひとりひとりが幸いであることです。永遠に幸いであることです。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。」
   詩篇1:2-3

今日の聖書/「神の命令とは愛のうちを歩むこと」ヨハネの手紙第2 6節

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 神の本質は愛です。
 愛は、愛する対象の幸福を求め続けます。
 神は私たちを愛し、わたしたちの幸福のために命じられるのです。
 愛のうちを歩みなさい、と。

 神の愛を受けるとき、私たちは幸福です。
 なぜなら、神の愛はわたしたちに互いに愛しあう力を生み出すからです。
 人は愛しあう時に満たされます。

 神からの愛を受けて、互いに愛しあう。
 そこに人間の幸福の最高の形があります。

 神の愛を受けて、互いに愛しあうこと。
 この幸せな命令を与えてくださった神に感謝します。

 そして、この命令を届けるために来られたキリストに感謝します。
 私に愛が分かるように、と十字架にまで架かられた救い主に。

「私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
 なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。」第1ヨハネ4章10節

今日の聖書/「その命令は重荷とはなりません」ヨハネの手紙第1 5章3節

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 多くの重荷を私たちは人から背負わされて生きています。
 責任、役割、義務、規則・・。
 そういった重たいものを背負って生きるのが社会人だと分かっていても、時折それが耐え難いもののように思います。

 しかし、神さまが与える命令は重荷とはならない、と聖書は教えます。
 その命令とは「互いに愛しあう」ということです。自分を犠牲にして他者を愛することです。
 それは人生におけるいかなる命令よりもハードなミッション、という気がします。
 しかし聖書は、重荷とはならない、というのです。
 なぜなら、イエス・キリストが共に背負ってくださるからです。

 神さまはわたしたちに重荷を与えたいのではありません。
 かえって、重荷を取り去りたいのです。
 わたしと共におられるキリスト。
 この愛に満ちた方は、私にあらゆる重荷を背負うための、力と望みを与えてくださる方です。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、
 あなたがたもわたしのくびきを負って、
 わたしから学びなさい。
 そうすればたましいに安らぎが来ます。」
   マタイ11:29

今日の聖書/「神がこれほどまでに」ヨハネの手紙第1 4章11節

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 どんなに愛に乏しい人も、キリストのつながりの中で、愛の人として変えられていくことができます。
 それは、キリストの愛が無制限に注がれるからです。

 クリスチャンが人を愛せるのは、「神がこれほどまでに」愛してくださっている、という事実に支えられているからです。

 私にとって今日も、キリストが第一のお方でありますように。
 友を愛し続けるために。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、
 あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
 また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さが
 どれほどであるかを理解する力を持つようになり、
 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
 こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、
 あなたがたが満たされますように。」エペソ3:17-19

今日の聖書/「御名を信じ、愛しあう」ヨハネの手紙第1 3章23節

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 「神の命令とは」と、神さまのみこころが一節にまとめられている大切な節です。
 それは、キリストの御名(みな)を信じることと、互いに愛し合うことです。
 御名を信じるというのは、キリストそのものの実体をまっすぐに信じるという聖書の言い回しです。

 この二つの命令は切り離すことができません。
 キリストを信じてつながっていなければ、正しく愛しあうことはできないからです。

 わたしたちの「愛」はすぐに限界を迎えたり、かたよったり、うわべだけになったり、自己愛の隠れみのになります。
 しかし、私とキリストとのつながりを見つめるとき、愛は本来の輝きを保ち続けます。
 太陽を仰ぐ草花はいのちを受けつづけることができます。
 幹につながったぶどうの枝は、たわわに実りを与えられます。
 キリストにつながった人は、日ごとに愛を頂いて生きることができるのです。

 神の命令とは、キリストを信じることと、互いに愛しあうことです。

「父がわたしを愛されたように、
 わたしもあなたがたを愛しました。
 わたしの愛の中にとどまりなさい。」
   ヨハネ15:9