カテゴリー別アーカイブ: マルコの福音書

今日の聖書/「あれほど大きな石だったのに」マルコの福音書16章4節

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 イエス・キリストの復活の朝、女の弟子たちは危険を省みず、イエス様の墓へ急ぎました。
 遺体に香油を塗りたい、と願ったのです。
 しかし、墓の蓋をする大きな石をどうしたらよいものか、とも思っていました。

 けれど、その心配は無用でした。
 イエス・キリストは死から復活しており、石も取りのけられていました。すべては、あらかじめ約束されていたとおりだったのです。

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 こんな大きな石をどうしたらいいのだろう・・と悩む時が、私たちにもあります。
 超えられないハードルを感じたり、人間関係に横たわる重たい課題であったり。
 しかし、神さまはどんな石をも取り除けることのできるお方です。
 人間にとってもっとも大きな重荷である、罪と死をも乗り越えたイエス・キリストが、共にいてくださいます。
 どんな障壁があろうとも、希望の夜明けを期待しながら、今日も大胆に歩みたいと願います。

「主ご自身があなたの先に進まれる。
 主があなたとともにおられる。
 主はあなたを見放さず、
 あなたを見捨てない。
 恐れてはならない。
 おののいてはならない。」
  申命記31章8節

今日の聖書/「黙っているのに時がある」マルコの福音書15章5節

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 イエス・キリストを十字架に架けるためのユダヤ人達の計画も、最終段階になっていました。
 当時ローマの属国であったイスラエルでは、ローマ総督ピラトの許可がなければ死刑は実行出来なかったのです。

 ピラトはイエス・キリストを尋問して、彼が無罪であることが分かりました。
 しかし、ユダヤ人達の圧力に屈して、イエス様の死刑を許可します。

 5節では、イエス様がもはや一言も答えなかった、と記されています。
 福音書を読んできた方はおわかりだと思いますが、イエス・キリストの生涯は、十字架に架かるための生涯でした。
 その流れが決まった以上、あとは黙っていれば良かったのです。
 川を下る舟は、流れに乗れば漕ぐ必要はありません。
 すべては、神の計画通りに運んでいました。

 驚いたのはピラトです。
 今まで出会ったどんな罪人も、命乞いをし、弁明をしたでしょう。
 しかし、イエス様は静かに、満たされた死刑囚でした。

 驚くべきことは、イエス様にとって、待ち受ける十字架の苦痛よりも、私たちの救いという目的の方が、ずっと大事だったという事実です。
 キリストの沈黙は、どんなことばよりも雄弁に、救い主の生き様を教えてくれます。

「黙っているのに時があり、
 話をするのに時がある。」
   伝道者の書3章7節

今日の聖書/「キリストの“時”」マルコの福音書14章41節

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 福音書において、イエス様が「わたしの時はまだ来ていない」と何度か言われています。
 しかし、今日の箇所ではついに、「時が来ました」と語られました。
 それは、「罪人たちの手に渡され」る時であり、十字架の時です。

 イエス・キリストは、十字架に架かるために来られ、その“時”を目指して生きられた方であることが、福音書における“時”ということばから分かります。
 私たちを救うこと、それがいつもイエス・キリストの目的なのです。その生涯の根底に流れるのは、神の永遠の愛でした。鞭打たれ、弟子たちに裏切られ、十字架に釘付けられる“時”をも、キリストは受け入れ、達成されました。私たちへの愛のゆえに。

 主よ、私に与えられた今日という“時”をあなたと共に生きるために使わせて下さい。
 あなたが誰かを救うために。

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、
 別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。
 しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。
 あなたがこの王国に来たのは、
 もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
   エステル記4章14節

今日の聖書/「神のことばの永続性」マルコの福音書13章31節

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 決して変わらないものを、私たちは求めます。
 しかし、すべてのものは移り変わり、生気を失い、また消滅します。
 この地球を含む天体にすら、老化と寿命があるのです。

 しかし、とキリストは宣言されました。
 「わたしのことばは決して滅びることがありません。」と。
 確かに、歴史の中で聖書は変わることなく人々を救い続けています。

 樹齢千年を超える屋久杉で有名な屋久島で、私は縄文杉という大木のそばにテントを貼りました。
 その朝は縄文杉の真ん前で、一人聖書を読んでいました。
 縄文杉の樹齢は、2700年と言われています。
 そして私がその朝読んでいたレビ記という旧約聖書の書物は、3000年以上前に書かれたものです。
 縄文杉よりも、ずっと古い書物が、今も私に生きて語られているのか・・と改めて聖書の不変性を思ったことでした。

 これからも時代は変わり続けます。
 しかし、みことばの輝きが曇ることはないでしょう。
 主よ。あなたのことばを求める一人ひとりに、どうぞお語り下さい。

「初めに、ことばがあった。
 ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
  ヨハネ1章1節

今日の聖書/「あいさつされたりすることが大好きで」マルコの福音書12章38節

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 牧師は、「センセイ」と呼ばれます。
 また、当たり前のことをしているだけなのに、ずいぶんと感謝されたりします。

 しかし、それは私が偉いのではありません。
 人々が見ているのは神さまです。牧師は、神さまと人々の出会いに仕える機能を果たしているだけです。
 ですから、たとえ尊重されたり重んじられることがあったとしても、勘違いしてはならないのです。
 
 イエス・キリストが律法学者たちを評して語られたことばは、私にとって大事な教えです。
 広場であいさつされたり、満座の中で上席を勧められる時に感じる不健康な心地良さ。それは、私にもあるからです。

 虚栄に堕する、惨めな生き方から私をお守りください。
 賞賛を求める時、私は人を愛していません。
 十字架を背負って歩まれたキリストは、愛されることよりも愛することのために生きられました。
 このキリストの愛さえあれば、私はどこまでも幸福です。

「私は、あなたがたのために
 神からゆだねられた務めに従って、
 教会に仕える者となりました。
 神のことばを余すところなく伝えるためです。」
  コロサイ1:25

今日の聖書/「何の権威によって」マルコの福音書11章33節

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 イエス様を憎悪したユダヤの指導者たちは、冒涜罪の言質を引き出すべく、イエス様に権威に関する質問をしました。
 神の権威を帯びている、とイエス様に言わせたかったのです。

 しかし、イエス様は反対に質問をして、彼らを沈黙させました。
 それはバプテスマのヨハネという預言者についての質問でした。
 この質問の狙いは、ユダヤ人指導者たちが、実は権威について詰問する資格がないことを示しています。
 なぜなら、彼らは群衆を恐れる存在であり、相対的な人間同士の権威しか持ち合わせていなかったからです。
 その現実が、たった一言の質問によって浮き彫りになったのです。

 私たちは地上において、さまざまな権威を感じ、また取り扱います。
 しかし、いかなる権威であったとしても、それは神の前には無に等しいのです。
 誰もキリストに対して、答えを命じる権威は持っていません。
 なぜなら神は生かす方であり、私たちは生かされている存在なのですから。

 主よ。
 あなたの権威を、他の何かと比べることがありませんように。
 そして、あなたに愛され、日ごとに語りかけて頂けるこの幸いを感謝します。
 日曜日の今日、礼拝が与えられていることに感謝します。

「キリストは神の御姿である方なのに、
 神のあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての性質をもって現れ、
 自分を卑しくし、死にまで従い、
 実に十字架の死にまでも従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名をお与えになりました。」
   ピリピ2:6-9