カテゴリー別アーカイブ: マタイの福音書

今日の聖書/「希望を告白する理由」マタイの福音書28章20節

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 神さまの御心を行って生きる人は、いつも希望を持つことが出来ます。
 きっとあの人も救われる、きっとこの人も喜びに変えられる・・そんな望みを持ちながら、語りかけ、働きかけることができるのです。

 その希望の根拠は、働き人の資質や努力とは無関係です。
 根拠は、イエス・キリストです。
 天と地において、いっさいの権威を持つ方がおられる。世の終わりまで、私と共に。
 だからこそ、希望を告白できるのです。

 権威ある方と共にあるなら、私は大胆でなくてはなりません。
 また、微笑みとゆとりを持つべきです。
 暗闇の谷間に入る時も、消えないともし火を握って。

「この希望は失望に終わることがありません。
 なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
 神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
  ローマ5:5

今日の聖書/「死と栄光」マタイの福音書27章54節

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 イエス・キリストの十字架の死は、ローマ兵の隊長をして、「この方はまことに神の子であった」と言わしめました。
 十字架を背負うときも、あざけられ、罵られる時も、最後の一息まで、イエス様のことばと行いには矛盾は無かったのです。
 そして、息を引き取られるときに、大地が震えた、と記されています。

 神のことばを語りながら、イエス様は生きられました。
 神のことば通りに生きた生涯に、死という句読点が打たれたとき、そこにはまっすぐな神の子ととしての生涯が完成したのです。

 もしも人が、このイエス・キリストと共に歩むなら、キリストから目をそらさないで生きるなら、同じように矛盾の無い生を生きることができるでしょう。
 死によって完成される栄光。
 そういう生に、神は人を招かれています。

「イエスは言われた。
『あなたがたが人の子を上げてしまうと、
 その時、あなたがたは、わたしが何であるか、
 また、わたしがわたし自身からは何事もせず、
 ただ父がわたしに教えられたとおりに、
 これらのことを話していることを、
 知るようになります。』」ヨハネ8章28節

今日の聖書/「神に命じる愚かさ」マタイ26章63節

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 キリストは捕縛され、十字架刑に処せられようとしています。
 その罪状は、神への冒涜罪でした。
 自分を神の子と語ったゆえに、殺されたのです。

 しかし、キリストは実際に神の子でした。
 神である方が、ご自分を神であると語られたゆえに裁かれる・・・。そのような大きな過ちがなされたのは、人間の側の三つの性質が働いたからです。
 それは、罪と、傲慢と、無知です。

 大祭司の質問は、矛盾に満ちています。
 人間である大祭司が、神である方に対して、神の名によって命じているのです。
 神の子である方に、神の子なのか答えよ、と命令し、返事を聞いて死刑を命じています。
 これを暗愚と言わずに何と言うでしょう。

 しかし、その愚かさは私の内にもあるのです。
 自分を絶対に正しいと考え、あさっての判断をくだすことの何と多いことでしょう。
 聖書のことばに聞き従わずに、自分の感情やこだわりに従っている行動することがよくあります。

 大祭司の愚かな質問は、私を含めた、人間の罪と愚かさを表わしています。
 こんな私を、なおも愛されるキリストに感謝しつつ、この心を神さまに明け渡していきたいと願うのです。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。
 あなたに弁解の余地はありません。
 あなたは、他人をさばくことによって、
 自分自身を罪に定めています。
 さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」
   ローマ2章1節

今日の聖書/「この恵みの預かり物を」マタイの福音書25章21節

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 私たちの生涯が、資産管理をまかされたしもべたちにたとえられています。
 この場合の資産とは、私たち個々に与えられた、生命・能力・身体・時間・個性・環境のことなどでしょう。
 そして、やがて清算の日が来ます。
 貸与された豊かな預かり物を、どのように用いたか、が問われるのです。
 
 ここで大切なのは、どのように活用したか、ではありません。何をしたか、はさほど重要ではないのです。
 誰のためにしたか、という心をこそ神は喜ばれます。
 この恵みの預かり物を託して下さった方に感謝しつつ、この方を喜ばせるために生きるなら、資産が増えても増えなくても、神さまは喜んでくださるでしょう。
 (5タラント増やした人にも、2タラント増やした人にも、主人の喜びのことばはまったく同じです)

 神さま、私は役に立たないしもべです。
 しかし、私にもまた、あなたはいのちと力を与えてくださいました。
 これらを、あなたのために活かしきる、知恵と愛を、お与えください。

「人はうわべを見るが、
 主は心を見る。」第1サムエル16章7節

今日の聖書/「絶えざる愛の交わりを」マタイの福音書24章44節

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 世の終わりの時、イエス・キリストは再び帰って来られる、と約束されました。
 それを「再臨」と言います。
 クリスチャンは、再臨を信じています。

 キリストとの再会は、大きな喜びであると同時に、地上での生涯に活力を与える約束でもあります。
 その終わりの時であり再会の時が、いつ訪れるかをだれも知らされていないからです。

 神学生の時に、奉仕教会の牧師が神学校に来られる、とおっしゃっていたのを忘れて、授業の合間に私は寝床で寝ていたことがあります。
 部屋は乱雑なままです。
 ドアが繰り返しノックされるので、私は不機嫌な声で「誰?」と尋ねたのですが、ドアを開けて入ってきたのは牧師だったわけです。
 なんともカッコ悪いとこを見られて絶句している私に、牧師は笑いながら「私は来ると言ったではないか」と言われました。
 再臨のイエス様も、こんな風だよ、と教えてくださったわけです。

 再臨のイエス様を意識しながら生きる、ということは、隙を作らず、緊張して生きよ、ということではありません。
 いつも再会を楽しみにして、祈りつつキリストとの愛の交わりを楽しみながら生きる、ということでしょう。

 私の今日もまた、神を喜び、神に喜ばれる日として、ささげさせてください。

「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。
 主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」詩篇89篇15節