カテゴリー別アーカイブ: ペテロの手紙第2

今日の聖書/「キリストにある協働」ペテロの手紙第2 3章15節

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 ペテロもパウロも新約聖書を代表する使徒ですが、ペテロが最初からイエス様につき従っていた弟子であったのに対して、パウロはクリスチャン迫害の指導的立場から改心したという異なった経歴を持っています。
 宣教のツートップとも言うべき二人ですが、キリストにあって愛の絆で結ばれていたことが冒頭の聖句から分かります。

 このように、並び立つリーダーが一致して協働しているさまは、なんとも喜ばしいことです。
 どのような組織も、リーダーたちが競争したり反目したりして、内部から弱体化していくものです。
 しかし、イエス・キリストの愛によって生まれた教会においては、一致と協働こそ原則です。
 ペテロにしてもパウロにしても、「キリストにあって赦された罪人」という信仰において一つでした。自分を誇る人達同士は協力できませんが、同じ愛で愛されている人たちは一つになれます。

 自分の手紙の中で、「愛する兄弟パウロ」の手紙も紹介するペテロ。
 そんな初代教会のリーダーたちの姿に、安心と希望を感じるのです。

「こういうわけですから、
 もしキリストにあって励ましがあり、
 愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、
 愛情とあわれみがあるなら、
 私の喜びが満たされるように、
 あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、
 心を合わせ、志を一つにしてください。
 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、
 互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
   ピリピ2:1-4

今日の聖書/「本当に自由ですか?」ペテロの手紙第2 2章19節

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 神さまが与えてくださる恵みの一つは「自由」です。
 宗教は人の心を束縛し、不自由にさせると考える人がいますが、それは反対です。
 神なき心こそ不自由であり、滅びの奴隷であると聖書は言うのです。

 自分の心を点検するとき、私たちは本当に自由でしょうか?
 本当は、もがいても逃れられない欲望の束縛や、自己中心、自己嫌悪にしばりつけられてはいないでしょうか。
 イエス・キリストはわたしたちに自由をもたらすために来てくださいました。
 この方の愛の中に、真の自由はあります。

「キリストは、自由を得させるために、
 私たちを解放してくださいました。
 ですから、あなたがたは、しっかり立って、
 またと奴隷のくびきを
 負わせられないようにしなさい。」
   ガラテヤ5:1

今日の聖書/「なによりも、聖書を聖書として」ペテロの手紙第2 1章20節

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 「あなたが自由に解釈したらいいんだよ」というようなスタイルの芸術作品や歌が世間にはあふれています。
 作者のメッセージやこだわりが、受け止め手に強要されることはありません。
 どんな本を読むときも、読者は自由に読んでいいのであり、「私はこう解釈する」と言ってもかまわないのです。

 しかし、聖書は別です。
 聖書は神さまが与えられた書物であり、神さまの心が記されています。
 独自の解釈をすることは、神さまの心が分からない、ということになります。
 キリスト教会の歴史の中で、聖書を「神話」や「人為的に編纂されたもの」と決めつけて、自由に私的解釈しようとする動きが流行したことがあります。
 その結果、仮説が仮説を生み出し、聖書は人を救う書物とはならず、教会は弱体化してしまいました。そして結果的には「聖書を聖書として読む」方向へともどりつつあります。

 こうならないために、あらかじめ聖書そのものに「私的解釈をしてはならない」と記されています。
 聖書の記述にとまどったり、矛盾を感じたりするときに、聖書を疑うのではなく自分を疑うべきです。
 権威ある誰かの書いた本に惑わされないで、祈りつつ聖書そのものを調べていくなら、さらに深い発見をすることができます。分からなくても読み進めることです。鍵はやはり聖書のどこかにあることが多いです。
 
 聖書を日ごとに読み、その一つ一つを積み重ねていくならば、誰でも神さまの心に触れることができるのです。
 聖書は、神の霊によって書かれたいのちの書です。

「そこで、イエスは言われた。
 『だから、天の御国の弟子となった学者はみな、
  自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す
  一家の主人のようなものです。』」
   マタイ13:52