カテゴリー別アーカイブ: ペテロの手紙第1

今日の聖書/「卑しい利得を求める心からではなく、心を込めて」ペテロの手紙第1 5章2節

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 牧師は教会の御用をするわけですが、ここでは教会の人々のことが「神の羊の群れ」と記されています。
 神さまにとって、ひとりひとりはかけがえのない愛の対象なのです。牧師は神とともに、ただ愛に根ざして群れに仕えなくてはなりません。

 ここで排除されるべきなのは「卑しい利得を求める心」です。
 牧師は、その働きにおいてどのような利得が生じるのでしょう。

 ●経済
 基本的に牧師は教会の献金から謝儀を頂いて生活しています。
 それは、神さまからの報いとして感謝して受けるべきですが、謝儀のために働いてはなりません。

 ●承認欲求
 牧師は当たり前に仕事をしていれば、どんな牧師でも感謝され、また賞賛もされます。
 それは当然のことです。なぜならば実際に働いているのは神さまだからです。教会では人が救われ、また変えられていきます。病院でも治らなかった心の病が教会で治ることもあるでしょうし、人生が大きく変わった、というようなこともいつでも起こりえます。
 その際に「◯◯先生のおかげで」と言われることもあります。それに慣れると、今度は自分から承認や賞賛を要求したり、しまいには自分で自分を賞賛したりする勘違いに向いやすいのです。
 牧師は神さまとつながっているだけで、恵みの現場で感謝していられる働きです。
 そして、誰に承認されなくとも、キリストに愛され、キリストと共に働けることにこそ本当の誉れがあります。

 ●自己拡大
 礼拝出席が増えたり、洗礼を受ける方が多く起こされたり、新しい会堂が経つことは喜ばしいことです。
 本を出したり、種々の講演に招かれたりすることもあるでしょう。
 そして、何か自分が大きな器になった錯覚に陥ります。
 他の同労者と自分を比較したり、さらなる拡大路線に憧れたりします。
 しかし、聖書のどこにもそんな働き方は記されていません。
 自分が立派な人物になることを求めて働くなら、教会は愛の対象ではなくて、自己拡大の手段です。
 
 牧師がこれらの卑しい利得を求めて働くときに、神さまのみこころとわざが阻害されるのです。
 私はどうでしょうか。
 目の前の一人ひとりを、心を込めて愛するために、今日という一日を使わせてください。

「イエスは再び彼に言われた。
 『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』
 ペテロはイエスに言った。
 『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』
 イエスは彼に言われた。
 『わたしの羊を牧しなさい。』」
   ヨハネ21:16

今日の聖書/「罪からの自由」ペテロの手紙第1 4章2節

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 イエス・キリストのもたらしてくださるものは「自由」です。
 キリストとのつながりの中で、人は憎しみから自由になります。
 そして、罪からの自由も与えられます。

 人は皆、罪の奴隷です。
 どうして、こんなことをしているのだろう・・、なぜこれがやめられないのだろう・・・と思いながら生きています。結局は自己中心でしかない自分のありさまをつきつけられることが少なくありません。
 修行をしても、努力をしても、欲望から自由になることはできません。
 もしもわたしたちの地上での生涯が、欲望への隷従のために用いられるのなら、人は何のために生きているのでしょう。
 
 イエス・キリストは、わたしたちが欲望から自由になれるように、と導いてくださいます。
 その秘訣は愛です。
 キリストの十字架によって示された神の愛を知るとき、わたしたちの心に神を愛しみこころを行いたい、という健やかな願いが生まれます。
 神のみこころに生きることと、欲望を満たすことは、矛盾する二つの生き方であり、同じ時間と空間に両立することはできません。
 キリストの愛を喜ぶとき、私たちは罪から自由なのです。

 こうして、キリストとの接点を持ち、強くつながればつながるほど、わたしたちの生き方は変わっていきます。
 秘訣は愛です。
 神に愛されていることを感謝し、私も神と人を愛していきたい、と祈り願いましょう。
 その時私の心は自由であり、平安です。

「父がわたしを愛されたように、
 わたしもあなたがたを愛しました。
 わたしの愛の中にとどまりなさい。」
   ヨハネ15:9

今日の聖書/「祝福の器に召されている」ペテロの手紙第1 3章9節

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 クリスチャンは「祝福を受け継ぐために」召されている、と記されています。
 神さまは、ご自分を信じる者に祝福を惜しまれません。

 そんなクリスチャンの使命は、自分が祝福を受けるだけではなく、他者の祝福を祈ることです。
 自分を祝福しない人、悪を行ったり、侮辱してくる人にも、復讐ではなくて祝福をもって返すように、と記されています。
 祝福とは、「神とともにあって、この人が幸いであるように」と祈ることです。
 なんで、自分を侮辱する人にそんなことを・・と、私たちは思いがちですが、実は他者の祝福を祈ることは、私たちの心を苦々しさから守るという意味で大きな恵みです。

 祝福を祈っても、私たちから祝福は去っていきません。神は無限に祝福してくださるからです。
 かえって、自分に敵対する人の祝福を祈る時、私たちはさらに自由と平安を心に感じることでしょう。

「この希望は失望に終わることがありません。
 なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
 神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
   ローマ5:5

今日の聖書/「キリストの打ち傷のゆえに」第1ペテロ2章24節

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 風変わりな表現かと思いますが、「私を救うこと」というのは困難な事業であったと思います。
 私は屈折しており、罪と癒着しており、偽りを好み、疑い深い少年でした。
 クリスチャンとなってからも、古い性質は色濃く残り、安定せず、傲慢でした。

 その私を救い、愛を教え、導きつづけ、そして私のしでかしたことの全責任を負われたのは、十字架のキリストです。
 私はこの方の打ち傷のゆえに救われました。
 今も、この方の愛によって育まれ、取り扱われ続けています。

 人を本当に助けることが出来るのは、その人のために生きる人であり、また死ぬ人です。
 この方の愛の中に、一人の小さな私が、今日も生かされています。

「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。
 主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」
  詩篇89:15

今日の聖書/「聖さと愛」ペテロの手紙第1 1章22節

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 神が聖であるように、私たちも聖くありなさい、と聖書は教えます。
 汚れから離れて聖くありたい、というのはわたしたちの誰もが求めるところです。
 しかし実際には、心は罪を生み出し、聖く生きることができません。
 秘訣はどこにあるのだろう、と聖書に聞くと、「愛」が秘訣であることを思わされます。

 神を愛し、人を愛するとき、人は聖さへと導かれます。
 たとえば人に接するときに、その人を真に愛していれば、よこしまな思いは排除されます。
 愛がわたしたちを自由にし、また守るのです。

 愛と欲望は矛盾し、同時には存在できないからです。
 私たちがキリストを見つめるなら、愛がわたしたちを支えます

 心を込めて神を愛し、また隣人を愛したいと思います。
 聖い関わりをするために。

「しかし、愛する人々よ。
 あなたがたは、自分の持っている
 最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、
 聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、
 永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストの
 あわれみを待ち望みなさい。」
   ユダの手紙 20節