カテゴリー別アーカイブ: テモテへの手紙第1

今日の聖書/「金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです」テモテへの手紙第1 6章10節

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 かつて、スウェーデンに行った時、ボルボの社員のクリスチャン・クラブに参加したことがありました。
 ボルボ社の広大な敷地の中には、たくさんのクリスチャンクラブがあるのです。

 お話をした社員の一人がこんなことを言いました。
 「お金は素晴らしいしもべだけど、最悪の主人です。」
 つまり、良いことのために使うならお金は素晴らしく用いられるけれど、お金のために生きるなら人生を滅ぼす、ということでしょう。

 人も社会も、金銭が行動原理になるとき、それは金銭の信者に堕しているのです。
 そして、そこからあらゆる悪が生じると聖書は警告しています。
 お金のためなら人を押しのけます。
 お金がからむと、信頼が消えていきます。
 お金は嘘を生じ、お金は自由を束縛します。
 お金のために争いが生まれ、お金のためなら正義が曲げられていきます。
 人は卑屈になり、あさましくなり、心を開くことをやめます。
 お金を親友にすれば、真の友もいなくなります。
 私も「この人は・・お金が無かったらどんなに楽だったろう・・」と思うような出会いを何度かしてきました。

 もしも私たちが、金銭の奴隷から自力で脱することができないのなら、イエス・キリストによりすがり、助けを求めることです。

「イエスは彼を見てこう言われた。
 『裕福な者が神の国に入ることは、
  何とむずかしいことでしょう。
  金持ちが神の国に入るよりは、
  らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』
 これを聞いた人々が言った。
 『それでは、だれが救われることができるでしょう。』
 イエスは言われた。
 『人にはできないことが、神にはできるのです。』」
    ルカ18:24-27

今日の聖書/「敬いと勧め」テモテへの手紙第1 5章1節

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 加齢に伴い、人生の先輩達の言動が時々状況にそぐわなくなる時があります。
 物忘れや事実誤認、思い込みなどが働きます。
 しかし、それは脳の機能の変化の中で仕方が無いことです。

 また、どれほど人格として成熟してきたとしても、罪を内包する人間である以上、何らかの注意をしなくてはならない時もあります。

 そんな時に、パウロが教会に対して命じるのは「敬意」です。
 相手の方の尊厳をきちんと意識し、叱るのではなく「父親に対するように勧める」ということです。
 当時の社会における父親の立場と役割を考えるなら、それは「十分に敬いつつ勧めよ」ということになります。

 実は、このことばは私を何度も助けてくれたことばです。
 身体的な衰えを感じつつある方を「叱る」ことは、深く傷つけることにつながりかねません。
 その方には十分な経験と蓄積された知恵があります。また教会の中のお年寄りは、長きにわたり教会のために祈り続けてくださった方でもあります。
 教会は、人生の先輩達によって実は豊かに支えられているのです。
 お年を召された方を軽んじることは、一人の人格を導かれる主を軽んじることです。

「あなたは白髪の老人の前では起立し、
 老人を敬い、またあなたの神を
 恐れなければならない。
 わたしは主である。」
   レビ記19:32

今日の聖書/「あくまでそれを続けなさい」テモテへの手紙第1 4章16節

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 自分自身のために、聖書を読みつづけること
 教えるものとして、聖書を伝え続けること

 それを「あくまで続けなさい」と記されています。

 私は本当に飽きっぽい人間で、長続きするものがほとんどありません。
 しかし、聖書については、飽きることも疲れることもありません。

 それは私がキリストを捕らえたのではなく、キリストが私を捕らえてくださったからです。
 捕らえらている安心と恵みの中で、なすべきことをし続けさせて下さい。

「私は、すでに得たのでもなく、
 すでに完全にされているのでもありません。
 ただ捕らえようとして、追求しているのです。
 そして、それを得るようにとキリスト・イエスが
 私を捕らえてくださったのです。」
   ピリピ人への手紙3章12節

今日の聖書/「教会外の人々にも評判の良い人でなければ」テモテへの手紙第1 3章7節

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 教会の中で、リーダー的に働く人の資質についての記述です。
 そこには、教会外での評判についても触れられています。

 これは、「クリスチャンは、当然教会外でも評判が良くなっていく」ということを表していると思われます。
 キリストに触れられ、そのことばを受け止めて生きるなら、この世の良識や礼儀正しさにおいても当然整えられて行くはずだからです。

 あらためて、アブラハムについての記述を思わされます。
 彼は、外国人として、異教を信じる人々の中に住んだ時も、良好な関係を築き、また尊敬を得ていました。

 主よ。私の言動があなたの栄光を表しているとはとても思えません。
 この貧しい器をおささげしますので、どうぞお取り扱い下さい。

「ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。
『ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。
 あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。
 私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。
 私たちの中で、だれひとり、
 なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。』
 そこでアブラハムは立って、その土地の人々、
 ヘテ人にていねいにおじぎをして、
 彼らに告げて言った・・」 創世記23:5-8

今日の聖書/「神さまが望まれること」テモテへの手紙第1 2章4節

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 神さまの望みがシンプルに記されています。
 「すべての人が救われて、真理を知るようになる」ことです。

 しかし、この神さまの側の望みに対応して、すべての人が望みを告白しているわけではありません。
 「神さまは必要ない」「真理なんてありはしない」「宗教は弱者の妥協である」というような見解を見聞きすることも少なくありません。

 こうなると、神さまは応答の無い中で、手を差し伸ばし続け、一人ひとりに呼びかけ続けている、ということになります。
 事実そうなのです。
 真理は呼び続けるのです。
 なぜなら、このままでは人々は罪の中に死んでいくからです。

 クリスチャンでいることは喜びです。神の愛の中に充足するからです。
 しかし、クリスチャンでいることは悲しみです。多くの人が神の愛を知らずに生きているからです。この喜びと悲しみを心に味わいながら、教会とクリスチャンは、神の声となり、伸ばされる手となって、世に届いていきます。

 宣べ伝えることをやめることはできません。
 それは、義務だからでもなく、自己満足でも自己拡大でもありません。
 神さまが、ただ愛ゆえに、それを望まれているからです。

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。
 ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。
 私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。
 神の和解を受け入れなさい。」
   コリント人への手紙第2 5:20