カテゴリー別アーカイブ: テサロニケ人への手紙第二

今日の聖書/「愛は戒める」テサロニケ人への手紙第2 3章15節

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 聖書の中には「戒め」ということばが何度も出てきます。
 愛する、ということは、戒めを与えるということです。
 戒めてくれる相手を持つことは幸いなことです。それは愛されているということです。
 (いたずらに感情のはけ口にされている場合を除き)

 聖書に従わない歩みをしているクリスチャンがいるとして、「あの人はああいう人だから」と割り切ることは簡単です。「彼は(彼女)は間違ってる!」とさばくことも簡単です。
 しかし、聖書は兄弟として戒めなさい、と教えるのです。

 私たちの敵はサタンであって人間ではありません。
 人を憎むべきでは無いのです。たとえ、憎まれても。

 これらの歩みはすべて、勇気を必要とするものです。
 愛によって働く勇気は、私たちがもとから持ち合わせているものではありません。しかし、イエス・キリストは、愛によって働く勇気を与えてくださる方です。

 十字架に架かってくださった主イェスこそ、愛の勇者だからです。
 主よ。あなたは愛をもって戒めてくださる方です。
 私もまた、安易に敵対したりしないで、愛をもって戒める者であらせてください。

「あからさまに責めるのは、
 ひそかに愛するのにまさる。」
   箴言27:5

今日の聖書/「良いわざとことばとに進むよう」テサロニケ人への手紙第2 2章17節

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 議会における不適切やヤジが問題になりました。
 唇の汚れた民、ということばが聖書にありますが、まさに今の時代もそうです。
「そこで、私は言った。
 『ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。』」
   イザヤ6:5
 私たちはこの時代の空気を吸い、この時代の水を飲んでいます。

 この時代の中で、「良いわざとことばとに進む」ことは、流れに逆行することです。
 しかし、実際には時代は、「良いわざとことば」を渇望しています。

 今日の聖書は、愛と慰めの神との繋がりの中で、人は良いわざとことばに進むことができる、と教えています。
 神に今日も自分を明け渡していきたいのです。
 この時代の中で、しかし良いわざとことばとに進ませてください。

「彼は、私の口に触れて言った。
 『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。』」
   イザヤ6:9

今日の聖書/「信仰から生まれる愛」テサロニケ人への手紙第2 1章3節

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 愛はどうすれば強くなっていくのか、というと、それは信仰の成長と連動することが今日の節から分かります。
 イエス・キリストとのつながりを深めていくなら、その人の愛が強くなっていき、また教会の愛の交わりも育つのです。

 ひとりひとりは信仰深いけれど、その人のうちに愛が育たず、また互いの愛も強められない、とするならば、その信仰の性質が問われるべきでしょう。本当にイエス・キリストとの交わりなのか、と。

 正しく神を知るなら、愛の歩みは必然なのです。
 さらにキリストを知りましょう。愛を学ぶために。

「私たちは愛しています。
 神がまず私たちを愛してくださったからです。」
   第1ヨハネ4:19