カテゴリー別アーカイブ: テサロニケ人への手紙第一

今日の聖書/「目覚めていても、眠っていても」テサロニケ人への手紙第1 5章10節

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 昼も夜も、神さまは私たちとご一緒にいてくださいます。
 順境の時も、逆境の中でも。

 私たちはいつだって、神さまの前に立つことができます。
 それは、神さまが私たちを歓迎してくださるからです。

 後ろめたさも、わだかまりも、捨ててしまっていいのです。
 なぜなら、イエス・キリストが死んでくださったからです。
 私たちの一つ一つの罪のために。

 天のお父様。
 目覚めていても、眠っていても。
 あなたのそばにいれますことを、感謝します。

「あなたにとっては、やみも暗くなく
 夜は昼のように明るいのです。
 暗やみも光も同じことです。」
   詩篇139:12

今日の聖書/「汚れからの救い」テサロニケ人への手紙第1 4章7節

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 神は聖なるお方です。
 ですから、神さまと共に歩む人は、しだいにきよくされていきます。

 情欲と欺きに汚れきった心と体をも、神は取り扱い、作り替えてくださるお方です。
 なぜなら、神はきよさを喜ばれる方だからです。
 私たちがきよさへ進むための、導きと力を喜んで神は与えてくださいます。

 大切な事は、そのきよい神さまとの交わりの中に、私自身を委ねることです。
 恵みの流れの中に我が身をひたすことです。
 神のことばとその愛が、こんな私の心に安らぎを与え、口をきよめ、思いを強くしてくださいます。
 あわれみの連続の中で、キリストの姿に似せて、変えられ続けていくこと。これもキリストが与える救いの豊かさの一部です。

「父がわたしを愛されたように、
 わたしもあなたがたを愛しました。
 わたしの愛の中にとどまりなさい。」ヨハネ15:9

今日の聖書/「愛が願うのは愛」テサロニケ人への手紙第1 3章12節

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 パウロはテサロニケ教会の人々を深く愛していました。
 愛するということは、幸せを願うということです。
 そして、幸せとは「愛しあう生き方をすること」です。
 ですからパウロの祈りは、「あたたがたが互いに愛し合いますように」という強い願いとしてささげられます。
 また、すべての人への愛が増し加わりますように、とも祈ります。たとえ相手から愛されなくても、こちらからは愛していく生き方に自由と喜びがあることをパウロは経験していたからです。

 愛が願うのは愛です。
 なぜ、聖書は、キリストは「互いに愛し合いなさい」と命じるのか。それは、私たちを愛しているからであり、愛こそ幸福だからです。
 
 愛には順番があります。
 パウロも「私たちがあなたがたを愛しているように」と言っています。まず愛を受けること、そうすると互いに愛し合えるようになります。
 十字架に架かってくださったイエス・キリストが、永遠の愛で今日も愛してくださっています。
 その愛を受け止めつつ、主に喜ばれる生き方へと私を差し出していきたいと願います。
 愛によってすべての人を包むことができますように。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
 互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、
 あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
   ヨハネ13:34

今日の聖書/「愛は分割されるのか」テサロニケ人への手紙第1 2章8節

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 パウロはテサロニケ教会の人々を母のように、父のように愛していました。
 いのちすら与えたい、と。
 ここに牧会者の理想の姿があります。

 どれだけ教会が大きくなり、関わる人数が増えていっても、一人ひとりへの愛の量は減らしたくないのです。
 しかし、物理的・時間的にそれは不可能に思われます。
 愛することは対象を知ろうとすることです。しかし、関わる方達が増えれば、言葉を交わす時間そのものが減ります。
 山陽教会が20人弱だった頃は、すべての信徒さんと週に一度は言葉を交わしました。礼拝に欠席されたら電話をしました。
 しかし今はそれは出来ません。

 愛は分割されて、目減りするのでしょうか。
 心の必要が十分に汲み取れない関係性の中で、愛はどのように発揮されるのでしょう・・。

 このような葛藤を抱えつつも、あえてその悩みに直面し続けていくのが愛だと思っています。
 私はすでに私の能力を超えた働きに就いています。それは、キリストの愛が流れてくるから出来ていることです。
 ことがらがキリストに支えられているのなら、可能性は無限です。

 パウロは「愛した」ではなくて「愛する者となった」と言っています。パウロの意思により愛したというよりは、神の御心の中で必然的にそうなった、という印象を覚えることばです。そうして、彼は国教を越えておびただしいクリスチャンたちを愛していました。
 
 私は山陽教会の一人ひとりを愛することにおいて、大胆であろうと思います。
 祈りにおいてひとりひとりの祝福を求め、またそれぞれの状況を知り、応答するすべての知恵と力と時間を神さまに求めます。
 それが自力では不可能であることを知っていますから、ただただより頼んで祈ります。

 なぜなら、キリストの愛は60億人に差し出されるも、いささかも目減りも妥協もしない愛だからです。
 そんな愛で今日も愛されているのですから。
 この豊かな愛の中で。

「神に愛されている兄弟たち。
 あなたがたが神に選ばれた者であることは
 私たちが知っています。」
  テサロニケ人への手紙第1 1章4節

今日の聖書/「力と聖霊と強い確信」テサロニケ人への手紙第1 1章5節

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 テサロニケ人への手紙に入りました。
 パウロがテサロニケの教会へと書き送ったものです。

 この中でパウロは、彼が初めにテサロニケの人々へ福音を伝えた時に、聖霊による強い手応えを得た、と記しています。
 自分の中で、神のことばが燃えて、自分の口を通してみことばが伝わっていく感覚です。
 豊かな恵みがキリストから人々へ伝わっていく際の、管として自分が用いられる経験をしたのです。

 このような経験をクリスチャンはしばしばします。
 わたしに力があるのではありません。みことばが人を救うのです。
 私ではなく神の霊である聖霊が、力強く働くのです。

 ああ、そのような神のことばの管として、今日もあなたに私をおささげします。
 また、ことばだけによらず行いにおいても語れる成熟をお与えください。

「それゆえ、主はこう仰せられた。
『もし、あなたが帰って来るなら、
 わたしはあなたを帰らせ、
 わたしの前に立たせよう。
 もし、あなたが、卑しいことではなく、
 尊いことを言うなら、
 あなたはわたしの口のようになる。
 彼らがあなたのところに帰ることがあっても、
 あなたは彼らのところに帰ってはならない。』」
   エレミヤ書15章19節