カテゴリー別アーカイブ: コリント人への手紙第2

今日の聖書/「神の怒りがきわまるとき」列王記第2 23章26節

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 ヨシヤ王の全力を尽くした宗教改革にもかかわらず、イスラエルに対する神さまの怒りは無くなることがありませんでした。
 列王記を読むと分かる通り、王たちはあまりにも神を愚弄し続けました。
 忍耐につぐ忍耐の末に、ついに神さまは王国を滅ぼします。その方針が決定された以上、もう何をもってもくつがえすことはできません。

 神は愛と忍耐の方です。
 しかし、聖なるさばき主でもあります。

 イエス・キリストによって、十字架の救いはすべての人に差し出されています。
 今日、御声を聞くならば、その声にしたがって、キリストを信じて罪のゆるしを確かなものとするべきです。
 この世界を初められた方は、最後にはこの世界を責任をもってさばかれます。
 今は救いの時です。

神は言われます。
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
 救いの日にあなたを助けた。 」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
  第2コリント6章2節

今日の聖書/「真理のためなら、何でもできるのです」コリント人への手紙第2 13章8節

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 日々のあれこれに追われるときに、気づけば空回りをしていた、ということが少なくありません。
 ただ焦っていただけで、何も生み出さず、かえってまわりに迷惑をかけていただけ・・というようなことが。

 大切な事は、誰と共に自分は立っているか、です。
 神のみこころに従っているなら、無為な一日を過ごすことはありません。
 労苦の道筋を振り返ると多くの芽生えを見ることができるでしょう。
 目先の幻影に惑わされて、右も左も選択できずに時間だけが過ぎていくこともないでしょう。

 イエス・キリストは、十字架への道筋を一筋に歩まれました。人類の誰も歩んだことのない道を、真っ直ぐに。
 真理を握っていたからです。
 その真理とは、愛です。

 神の与えるみことばに従うときに、これが道であるという確信と平安の中、手応えのある一歩一歩をすすめることができます。

 主よ。あなたの御顔の光の中を、歩めることを感謝します。

「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。
 主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」
   詩篇89:15

今日の聖書/「肉体のとげに勝る恵み」コリント人への手紙第2 12章7節

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 有名なパウロの「肉体のとげ」についての記述です。
 彼には深刻な持病があり、それは祈っても癒されることはなかったのです。
 このところからクリスチャンであってもすべての病が癒されるわけではない、ということを知ることができます。

 しかし文脈を読むと、パウロが強調したいのは「とげ」ではなくて恵みであったことが分かります。
 パウロは神さまからのすばらしい啓示を頂きました。それは神からの特別なことばであり、恵みの経験でした。
 そのことでパウロが高ぶることが無いように、ととげは与えられたのです。
 それはつまり、そのとげが無ければ恵みのすばらしさのあまりに高ぶってしまうほどのすばらしい取り扱いを頂いた、ということです。

 着目されるべきなのはとげではなくて恵みです。
 どれほどの素晴らしい喜びの中に、クリスチャンは置かれていることでしょう・・。
 いつでも祈りの中で神の御前に立てるということは、何という恵みでしょう、みことばから主のみこころを味わえることは・・。

 神さまが苦痛を備えるときには、必ずそれ以上の恵みがあることを改めて思わされます。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。」
詩篇119:71

今日の聖書/「弱いのだから弱い私でいればよい。」コリント人への手紙第2 11章30節

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 大伝道者パウロは、自分の弱さを告白します。
 前章で彼は「誇る者は、主を誇りなさい。」(10:17)と語り、自分を誇ることからの卒業を勧めました。
 そしてどうしても自分自身のことで誇る必要があるのなら、「弱さ」を誇ると言うのです。

 人は本当に弱いし、無力なのです。
 パウロは教会のことを思うときにいつも、悩みと無力感を感じたことでしょう。
 人々のことを考えると心が激しく痛んだのです。
 彼はその時にいつも主を見上げました。

 自分の悲しみと限界を告白するときに、神さまご自身が働いてくださるのを知っていたのです。
 弱さを祈りを生み、祈りは祝福を生みました。
 パウロが弱さを告白するときに、神の力強さもまた現れたのです。

 私もまた、もっとパーフェクトな牧師でありたいと思います。
 あのことにもこのことにも通じていられたら、もっと多くの人の友になれるのに、と考えます。
 もっと実力や人脈を持っていれば、たくさんの人々の人生に貢献できるのに、と。
 悲しむ人と一緒に悲しみを共有するしかできないときに、たまらない無力感を感じます。
 しかしそこに祈りが生まれます。
 私の弱さを埋めるだけの豊かな神の強さを期待して、祈ることができるのです。

 弱いのだから、弱さを告白して神に期待すれば良い。
 その事を改めて教えられる朝です。

「しかし、主は、
『わたしの恵みは、あなたに十分である。
 というのは、わたしの力は、弱さのうちに
 完全に現れるからである』と言われたのです。
 ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、
 むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
  第2コリント12:9

今日の聖書/「誇る者は、主を誇りなさい。」コリント人への手紙第2 10章17節

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 自分を誇る、というのは他者との比較から誇っているのです。
 主を誇る、というのは比較の世界を卒業して、神が自分の人生になしてくださったすばらしいわざをもって神を讃えるのです。
 そこには自由があり、安らぎがあります。

「主はこう仰せられる。
『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
 つわものは自分の強さを誇るな。
 富む者は自分の富を誇るな。
 誇る者は、ただ、これを誇れ。
 悟りを得て、わたしを知っていることを。
 わたしは主であって、
 地に恵みと公義と正義を行う者であり、
 わたしがこれらのことを喜ぶからだ。
  −−主の御告げ−−』」
  エレミヤ9:23-24

今日の聖書/「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方」コリント人への手紙第2 9章10節

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 農夫が種を撒いて収穫するとき、翌年蒔くための種と一年間食べるためのパンとを得ることができます。
 同じように、みことばの種を撒く人も語ることで枯渇したりはしません。たしかに自分自身も満たされ、支えられます。

 この10節の約束のみことばは、私を支えたことばでした。
 「でした」と過去形なのは、このことばはたしかに私のこれまでの歩みの中で実現したからです。
 主は豊かに備えてくださいます。そのことを信じて、惜しみなく自分自身を神と人に差し出す者とならせてください。

「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、
 神に感謝します。」
 第二コリント9章15節