カテゴリー別アーカイブ: コリント人への手紙第1

今日の聖書/「不思議な助言者」イザヤ書9章6節

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 英語では、ワンダフル・カウンセラーと訳されます。

 イエス・キリストの誕生をはるか昔に預言したこの箇所で、キリストは「不思議な助言者」と呼ばれています。
 本当にその通りです。

 行き詰まりや不安、絶望の中で、何度この方に助けられてきたことでしょう。
 祈りの中で平安を得、みことばによって力にあふれる経験をさせていただきました。

 朝ごとに、夕ごとに、語り合ってくださる神がおられるということ。

「ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」
  第1コリント2章16節

今日の聖書/「見きわめることはできない」伝道者の書8章17節

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 ソロモン王は、誰よりも知恵ある人として知られましたが、彼はここで自分の無知を告白しています。
 結局のところ、分からないことだらけなのです。
 
 神さまの造られた世界の中で、神さまの時が流れています。
 誰もそのみわざを見きわめることはできません。

 人はなんとか、知り得ないことを知ろうとして、努力をします。
 「これは前世のたたりだ」とか、「今日のラッキカラーは」とか、そんなあてにならない話に、大切な人生の決断をゆだねたりもするのです。
 
 大切なことは、神さまの前にいと小さな自分であることを認めることです。
 私は世界を見きわめることはできませんが、神さまは私を見きわめるお方です。
 この方からの語りかけを受け止め、従って生きるなら、道を間違えることはありません。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、
 その人はまだ知らなければならないほどのことも
 知ってはいないのです。
 しかし、人が神を愛するなら、
 その人は神に知られているのです。」
   第1コリント8:2-3

今日の聖書/「誇るべきもの」エステル記5章11節

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 王妃エステルは勇気を出して、ユダヤ人を救うために動き出していました。
 それは、大臣ハマンのほろびが近づいていることを意味していました。

 しかし、ハマンはそれにまったく気づかず、自分がエステルの宴に呼ばれたことに上機嫌で、家族と友人を呼んで自慢話に花を咲かせていました。

 彼の誇りは、財産、子どもたち、昇進などでした。いつの時代も、人の誇りはこういったものです。
 けれど、これらの誇りはやがて過ぎ去るものです。
 ハマンの虚しい誇りは、あわれですらあります。

 神に愛され、神の御心を知って生きること。これにまさる誇りはありません。
 私達を神の子どもとするために、イエス・キリストは十字架に架かって死んでくださいました。
 この事実にはっきりと表れている神の愛。
 ここに、永遠の誇りがあるのです。

「しかしあなたがたは、神によって
 キリスト・イエスのうちにあるのです。
 キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、
 また、義と聖めと、贖いとになられました。
 まさしく、『誇る者は主を誇れ』と
 書いてあるとおりになるためです。」
   第1コリント1:30-31

今日の聖書/「ことばを送る思い」コリント人への手紙第1 16章8-9節

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 ペンで手紙を書くことが少なくなりました。
 メールが主流です。しかもどんどんメールの文章が短くなっていくのを感じます。
 ことばをやりとりすることに、時間をかけること避ける時代なのかもしれませんね。

 パウロは16章にわたる手紙をコリント教会に向けて書きました。
 しかし、彼は決してのんびり生活してたわけではありません。エペソにいる彼は伝道の働きに忙しく、また迫害の危険もありました。
 その中で時間を裂き、コリントのクリスチャンのためにキリストと共にいかに生きるべきかを書き送っているのです。
 パウロのこの情熱は、イエス・キリストの愛に押し出されたものです。

 このようにして聖書の一書一書が書かれていることを思わされます。
 神の愛に押し出されて書かれた一つ一つ。
 そのことばにこめられた思いを受け止める読み手とさせてください。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、
 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
 それは、神の人が、すべての良い働きのために
 ふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
   第2テモテ3:16-17

今日の聖書/「復活の希望の中で」コリント人への手紙第1 15章51節

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 聖書の教える福音の内容において「復活」は重要なテーマです。
 わたしたちの地上の生涯は死をもって終了ではない、と聖書は明確に教えています。

 この復活の約束は、クリスチャンの生き方に大きな下支えを与えます。
 人生は喪失の連続であり虚無に向かうものではなくて、死後にこそ完成と喜びが待ち受ける希望の旅路となるからです。

 その時人は「変えられる」と記されています。
 クリスチャンは神の子どもとされるという約束を神から頂いて地上を生きます。そして復活の際に、まさに神の子ども(キリストの似姿)に変えられるのです。
 それは、私という一個の人格の完成の時です。神と私が永遠の愛によって一つされる希望が、聖書では大胆に明示されているのです。

 この希望に導かれて、今日も私は歩みます。
 帰るべき魂のふるさとへの旅路。その一日一日を楽しみます。
 この約束の知らせを、一人でも多くの方に知って頂けますように。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
 鏡のように主の栄光を反映させながら、
 栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
   第2コリント3章18節

今日の聖書/「あなたも預言者」コリント人への手紙第1 14章31節

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 預言は予言とは違います。
 神さまのことばを預かって伝えるのが聖書の預言です。

 イエス・キリストを信じて、聖霊と共に聖書を読む人は、誰でも預言者となることができます。
 それはつまり、「神さまにみこころが示される」という経験です。
 ですから、みこころが示されたならそれを語るべきです。そして、教会というところは誰もがそれを語り合える場所であるべきです。
 ただし、大切な事は自分だけが預言者にならないことです。クリスチャンは誰もが神からの知恵を語り合い、またそうやって教えあい、補いあうのです。
 語る人は聞く人、そして吟味し、実行する人でなくてはなりません。

 私もまた、講壇から一方的に宣教するだけの者ではなくて、信徒さんの口から出るみことばに裏打ちされたことばに対して、教えられやすく誠実な者でありたいと願うのです。

「以前からサウルを知っている者みなが、
 彼が預言者たちといっしょに預言しているのを見た。
 民は互いに言った。
『キシュの息子は、いったいどうしたことか。
 サウルもまた、預言者のひとりなのか。』」
   第1サムエル記10章11節